19世紀ピアニスト列伝

テオドール・デーラー 第3回:フランスからロシアへ

2016/02/09
テオドール・デーラー
第3回:フランスからロシアへ

 今回は、デーラーのパリにおける活動が社交、演奏の両側面から語られ、パリから故国ルッカへの帰郷と再び着手した旅行へと話が移ります。パリのデーラーは、ルッカの宮廷育ちということもあって気品あふれ、スキャンダルをすっぱぬかれることもなく、「密やかに」著名な女性たちと深い絆を勝ち得たようです。

デーラー

 交友関係とルッカの宮廷で過した青春時代に培われたこの上なく上品な物腰の人物、上流階級の優雅な習慣を持つデーラーは、上流貴族によって愛情をこめて慇懃にもてなされた。上品で繊細な彼の才能の染み通るような魅力、気品があり節度をわきまえた人柄は、彼が急速に成果を上げるのに相応しいものだった。当時の時評コラム―もう約半世紀前のことだ!―は、いかにこの若きヴィルトゥオーゾが本気の愛情をかき立て得たか、そして、どのような絆が、その美貌と才気によって著名な女性たちと彼を結びつけたのかを語っている。申し添えておくが、デーラーは、薄明かりの中に秘めておく数々の控えめな勝利に関して卓越した手腕を発揮した。彼は小声で言われたり、あるいはむしろ囁かれたりするような人物の名を公にされるようなスキャンダルなく、密やかに勝利を収めることができた。

 私は、公開演奏会や内輪の夜会で何度もデーラーの演奏を聴いた。彼の演奏は優雅で正確才気にとみ、魅力的だったが、力強さと活気を欠いていた。デーラーショパンの感受性、リストの大胆さタールベルクの響きを持ち合わせていなかったが、彼はこの三大芸術家と、デーラーが強い愛着を表明していたアンリ・エルツに由来していた。繊細さと表現のいずれにおいても彼の美点はより少ないが、興趣があり、ディレッタントの聴衆を魅了する性質を帯びていた。

 募り行くデーラーの名声、旅行への愛、イギリスを知り、ロンドンで自身のヴィルトゥオーゾとしての名声を認めてもらいたいという願いから、彼は1839年に海峡を渡った。演奏会の聴衆とイギリスの上流社会は彼を熱烈に歓迎した。時の勝者としてもっとも貴族的なサロンに迎えられ歓待された彼は、あの人柄に宿る魅力のおかげで、彼の周囲にはいつも芸術的才能の作用で陪食客と名家の友人が集まった。そして突然、この戦闘的な生活に疲れ、豊かで容易に手に入る成功になかば飽きさえして、この甘やかされた子どもはイギリスを離れ美しいルッカの隠れ処に戻った。そこでは子ども時代の庇護者がいまかいまかと彼の帰りを待っていたのだ。

 それは一つのステップでしかなかった。あの静かな住居で一年を過ごした後のこと、ひたすら芸術に捧げられた穏やかな生活の只中で、休息し英気を養ったデーラーは再び旅路に着いた。公爵は、同盟君主や親類宛の信任状――それがあればあらゆる困難が取り除かれ、直接、最上流社会に紹介される――を持たせ、新たな休暇を彼に認めた。デーラーは再び、そして何度も、ドイツ、オランダ、ベルギーを訪れ、フランスにも戻ってきた。その後でロシアを訪れた。そこでは、あらたな勝利が彼を待ち構え、彼の幸福がはっきりと形に表れることとなる。


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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