テオドール・デーラー 第2回:諸国遍歴、そしてパリへ
デーラーがルッカ公爵からその室内楽団付ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして恩給を受けたとき、彼はまだ18歳だった。イタリアの数ある小公国は当時、芸術家たちにとって真のオアシスだった。彼らはそこで生活を心配することなく、心行くまで作曲し、自身の才能を試すことができたのだ。ローマ、フェッラーラ、フィレンツェ、ヴェニス、ミラノは、県、つまりは工業的中心地になる前は芸術の聖地だった。ルッカ公爵は、自身の恩給受領者に大変愛情をかけ、デーラーはイタリアを横断する諸国歴訪にも度々付き添った。だが、いっそう大きな劇場で演奏したいという願望、外国の大芸術家たちを知り、彼らの様式を学び、様々な流派を比較し、その秘訣を見抜きたいという野心から、若き大家はヨーロッパを横断する長旅に出た。ドイツ、オランダ、デンマーク、ベルギー、フランス、イギリスは、この輝かしく愛想の良いヴィルトゥオーゾが次々に、そして繰り返し訪れた国々である。
その間に、デーラーは愛するルッカの街に戻って数ヶ月を過ごしていた。ここで彼は再び忠実かつ教養ある友に囲まれ、王族生活の魅力、そして自身の腕に磨きをかけるために必要な休暇を見出した。相変わらず熱心にお気に入りの音楽家の野心に手を貸す公爵は、デーラーが多くの演奏会を開き、フランクフルト、ライプツィヒ、ハンブルク、コペンハーゲン、ベルリン、アムステルダム、ロッテルダム、ハーグ、ユトレヒト、リエージュ、ガン、アントワープ、ブリュッセル、そしてパリとロンドンの旅程をこなすために使える長期休暇を彼に認めた。これらの都市で、この気高き芸術家、優雅で趣味の良い作曲家はきまって熱狂的な歓迎を受けた。
デーラーがパリに到着したのは1838年のことである。当時、タールベルクの名声が強い光を放って輝いていた。この著名なピアニストは、鍵盤楽器を、力強い響きをもつ歌唱的な楽器にして、ピアノ演奏技法に革新をもたらしたばかりだった。デーラーはヴィーンの大家[タールベルク]の全く特殊な美点を何からなにまで持ち合わせていたわけではなかったが、逆に、優美さと繊細さをこの上ない水準で備えており、いくつもの流行りの手法をものにしつつも、実践上の巧みな腕前と彼個人の美点を変質させないエスプリを宿していた。時代の趣味に払った僅かな犠牲が、ナポリのピアニストの個性を目だって歪めるようなことはなく、このヴィルトゥオーゾは自身の演奏に別個の味わいを残しておくすべを心得ていた。デーラーはパリ音楽院演奏協会で演奏し、大成功を収めた。芸術的なサロンとサークルは、この新人に光を当てた。彼は、タールベルク、リスト、ショパンが既に羨望した栄光に生まれ出づる名声を対置させようとするすべての人々によって取り入られるという類稀な幸運に恵まれた。だが、彼は大変に機転を利かせ、節度をもってこれを活用し、競争相手の誰に対してもライバルらしく振舞わず、決して優越を望まず、彼自身であることに満足していた。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。