19世紀ピアニスト列伝

フェルディナント・ヒラー 第1回

2015/05/19
フェルディナント・ヒラー 第1回

 今回から第23章「フェルディナント・ヒラー」の第1回です。ヒラーは若きショパンの親友として必ず伝記に登場しますが、なぜかヒラーについてはこれまで多くは語られてきませんでした。フンメルの門人であるヒラーは、フンメルを彷彿とさせる即興の名手であり、リストの教養高き愛人マリー・ダグー夫人やクララ・シューマンが敬意を払った肥沃な創造的精神の持ち主でした。
 生年時代をパリで過ごし、フランクフルト、イタリア、ドレスデン、そしてケルンで活動した国際人ヒラーショパン《ノクターン》作品15を献呈し、シューマン《ピアノ協奏曲》作品54を献呈し、アルカン《3つの行進曲》作品40を献呈したヒラー。現在も存続するケルンの音楽院の創設したヒラーフンメルに倣いピアノ曲、室内楽、協奏曲、交響曲、歌曲、オペラなどあらゆるジャンルで作品を残したヒラー。素性の明かされていない巨人ヒラーは一体どのような人物だったのでしょうか?
 第1回は出生からパリ到着までの足取りが語られます。

リース

「芸術死に瀕す、芸術に望みは無し。」悲観論者と社交嫌いの批評は、あの手この手でこう繰り返す。「人の思考は停止し、人は書くすべを知らない。頑ななリアリズムが芸術家の想像力を鈍らせ、きわめて豊かな資質は芽生える前に押し殺されてしまった。」これが悲観論者のお気に入りの、しかし殆どお決まりの主題だ。根拠がないわけではなくとも、こうしたあまりに排他的な遺憾の念に囚われて過去を没入するように見つめていると、現代の素晴らしい音楽作品が見えなくなり公正ではいられなくなってしまう。いや、そうではなくて反対に、現代に成就された創造の成果が[そもそも]、活力―それを見ることで我々の悲しみが和らぐだけの活力―を示していないということなのだろうか?

 大いなる芸術に情熱をかりたてられてその純粋な伝統を守る多くの音楽家たちは、まだかなり残っている。道を誤り真実から外れて自らの理想を選択しつつ、子どもじみた複雑さを追い求める人々の過ちが、この健気な一団の忍耐強さはただいっそうはっきりと際立たせている。筆者はこれについて雄弁な証拠を提供することとなる。過去の栄光と未来の約束の連鎖を握り続ける著名なヴィルトゥオーゾたちの一覧にフェルディナント・ヒラーの名前を書き込むそのときに。

 ヴァプローとフェティスは、フェルディナント・ヒラーの故郷をフランクフルト・アム・マインとし、生誕年月日を1811年10月24日としている。私の生徒の一人であるラッティエ嬢は、興味深い伝記(『音楽と音楽家研究』)を出版しているが、それによれば生誕年は1812年、生誕地はヴェンディショシッヒとしている。この2つの情報がどうあれ、確かな事実は、フェルディナント・ヒラーが芸術界にかくも生き生きと根を生やしたあの大いなるユダヤ教の家系に属しているということである。彼は母の下で音楽を学び始め、次いで彼の学習は熟練の教師たちの手に委ねられた。その中には卓越した教授アロイス・シュミットがいる。ヒラーは、多くの著名なピアニストたちがそうだったように早熟なヴィルトゥオーソで、10歳から演奏会に出演した。しかし、彼の両親は賢明も息子から芽生えつつあったその才能を利用して金儲けをすることはなかった。フェルディナント・ヒラーは文学と音楽を並行して勉強した。それから彼はドイツの芸術の楽園、ヴァイマールに赴いた。

 まさにこの地で、フンメルの愛弟子ヒラーはこの名高き大家の高度な音楽的知識と驚くべき即興演奏の美点を吸収したのだった。気高い様式、とりわけその音響に関する優れた造詣、表現の輝きと仕上げ、楽器を歌わせる、ゆったりとした全く声楽的な演奏法において、ヒラーほど気高い様式と最も特筆すべき流派の伝統を備えている者は同時代の芸術家にはいなかった。

 1828年ころ、ヒラーはパリに居を定め、そこに7年間留まった。ここで彼は息つく間もなく活動し、ヴィルトゥオーソ、作曲家として人前に姿を見せ、ローゼンハインモシェレスショパンヘラー[ら外国人の名手たち] がそれについて多くの証言を残したあの歓待を我々の国で受けたのだった。パリの社交界は、外国から来た芸術家に真の価値と際立った個性、敵対的な先入観なく学問と芸術の進展に寄与せんとする意思があるとわかれば、気前良くこの心のこもった熱烈な歓迎を認めるものだ。フェルディナント・ヒラーはパリに到着するなり、もっとも人気のある教師の一人となり、既に聴衆を味方につけていた優れた芸術家たちと交誼を結んだ。カルクブレンナーリスト、その後はショパンアルカンは2台ピアノや連弾で作品を演奏する親友となり、相棒となった。


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

【GoogleAdsense】
ホーム > 19世紀ピアニスト列伝 > > フェルディナント・ヒ...