カミーユ・スタマティ 第3回: 学習時代からデビューまで~リウマチの苦難を超えて
学習時代からデビューまで~リウマチの苦難を超えて
公務員をやめて音楽家になる決意をしたスタマティ。名高い教師カルクブレンナーのもとでレッスンが始まり、その素直さからスタマティはカルクブレンナーの一番弟子となりました。一方、学習意欲はとどまるところを知らず、ベートーヴェンの知人でパリ音楽院作曲科教授のアントン・レイハ、理論に長けたオルガン教授ブノワ、さらにはドイツはライプツィヒにまで足を伸ばし2歳年上のメンデルスゾーンからも作曲の指導を受けます。この時知り合ったシューマンは、音楽雑誌『音楽新報』にスタマティの《ピアノ協奏曲》作品2について若い才能を激励する好意的な批評を寄せました。
本文には触れられていませんが、フランスのデビューコンサートは、カルクブレンナーによって集められた若い音楽家たちによって行われ、ショパンも参加したことが知られています。
カルクブレンナーはその上、自身の生徒 [スタマティ] に大変な愛情を注いだ。スタマティは手の重さのかけ方に特化した独占的な訓練規律1に、子どもの如く素直に従ったからである。熟練のヴィルトゥオーゾたち―そこにはショパンが含まれる―はこの有名な教師の教えを求めたが、彼らは少なくとも機能性(メカニスム)の点においては完璧な彼の教育法の要求に従わざるを得なかった。スタマティは[カルクブレンナーの]右腕となり、常にカルクブレンナーのレッスンの代行者に選ばれた。カルクブレンナーは、自身で開設する授業以外はほとんどレッスンをせず、彼が指名する教師は決まってスタマティだったので、彼には数年もしないうちにパリの立派な顧客がついた。
若き教師はブノワ2とレイハ3から和声と対位法の貴重な助言を受けた。数ヶ月のライプツィヒ滞在期間には、シューマン、メンデルスゾーンと友好を結び、後者から高等作曲のレッスンを受けた。望郷の念と多くの生徒たちの呼び声によってこのドイツ旅行は中断された。この旅行は単なる旅行者の幻想ではなく、現地で和声の大家を研究し、彼らの根深い信条に身を浸し、大きな戦いに備えて力をつけて帰郷するための、真の芸術的な小旅行だった。しかし、ドイツでその時間はなかった。スタマティはフランスで意を決し忍耐強くこれを成し遂げたが、この決意と忍耐によって彼は、古今の大家の音楽をそれぞれの時代、学派に相応しい特有の様式で演奏するすべを知る博識のヴィルトゥオーゾとなったのだ。過度の練習、神経系統の過敏、特殊な病原のいずれが原因であるにせよ、スタマティの健康は19歳から幾度も長く激しい関節リウマチの発作に苦しめられていた。それだけに、彼の学識深さは賞賛に値する。この天性の芸術家は自身の芸術 [音楽] を大変愛してはいたが、そのとき絶対安静を余儀なくされ、何週間もあらゆる練習を禁じられた。しかし、この辛い試練が過ぎてしまうと、エネルギーを倍増して練習に復帰した。
1835年、カミーユ・スタマティは作曲家、ヴィルトゥオーソとして演奏会に登場し、自身のピアノ協奏曲(作品2)を演奏した。この作品は、気高くきちんとした様式の作品で、若き大家の教養をはっきりと示している。この見事なデビューで彼は名声の確立を成し遂げ、カルクブレンナー派の多くの信奉者たちからひいきにされる教師となった。彼が家庭の母たちの信頼を得るあらゆる美点を併せ持っていたということも付け加えておこう。気品、慎ましさ、清く正しい才能がそれである。彼はほとんど話さずに多くのことを要求した。最後に、彼はどう振舞うにつけてもピューリタニスムの鏡のようであり、宗教的基盤の上に立つ敬虔ないし気高い人々があくまでくずさないあの厳格な態度を持っていたのである。
- カルクブレンナーの教育における手と腕の扱いについては過去の連載記事を参照。
- ブノワFrancois Benoist(1794~1878): オルガニスト、パリ音楽院教授。ナント出身で幼いころからピアノを学び著しい才能を示した。ナントでオルガニストを勤めた後、パリ音楽院に入学して研鑽つみ1815年に作曲のローマ賞を得る。王政復古期、1819年に宮廷礼拝堂付オルガニストとなり、同年、パリ音楽院教授に就任。彼の門下にはピアノの傍らでオルガンも学ぼうとする数々のピアニスト兼ヴィルトゥオーゾあるまった。アルカン、マルモンテル、ルフェビュール=ヴェリー、プリューダン、Ed. シラス、C. フランク、ビゼー、サン=サーンス、ルイ・ディエメール等々。
- A. レイハ 過去の連載脚注4参照。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。