ヅィメルマン 第2回 ― 教育者、社交人、作曲家の光と影
ヅィメルマンは、ピアニストとして成功の時を手にした。彼は有名な歌手カタラーニCatalani1の演奏会に流行のヴィルトゥオーソとして参加したいと私に言っていたが、いくらかの虚栄心なくしてそのようなことを口にしたのではなかった。しかし、教授として非常に人気があり、暇があれば作曲し、あるいは世間の要求に答えていたので、彼は教育に専心すべくヴィルトゥオーソの活動的な人生を早々に断念しなければならなかった。
機知に富んだ話好きで、上品な精神の持ち主、趣味人のヅィメルマンは愛想がよく繊細な人柄だった。彼の愛した我々生徒にとって、彼が有名な同時代の芸術家たちについて大変興味深い思い出話をしてくれるのは、しばしば大きな喜びであった。時として、彼は辛辣な表現を用いて彼の大きな名声と周囲の芸術的な贅沢が引き起こしていた妬みに対する不満を晴らした
彼の鋭敏な精神、当意即妙の資質のほどを示す典型的な言葉を引用しよう。話題となったのは彼がその―おそらく不当にも―恩知らずな様を咎めたある覚えの悪い生徒であった。彼は私にこう言った。「やれやれ、彼は私にこう言ってやったよ。彼はペダルのセンスがいいがセンスのペダルが悪い、とね」。ピアニストたちはこれ以上説明しなくても、言葉の繊細さや影響力を理解することだろう。
勤勉であると同時に輝かしいヅィメルマンの生活には、しかしながら難点があった。ヅィメルマン夫人によって申し分なく治められていた家は、パリで最も人気のある一つの芸術的中心を占めていた。あらゆる種類の卓越した知識人たちがそこで会う予定を入れていた。この教師の大家族はこうした例外的な環境の中で晴れやかに過ごしていた。ヅィメルマンの長女が亡くなったのは、この幸福の只中のことであった。彼女はJ.デュビュフ夫人2で、エリートの魂、芸術家の心、詩的な想像力をもっていた。その後、息子が父親の家を出て行った3。ヅィメルマンは彼が自身の業績を継承し、自分の伝統を継いでほしいと願っていただけに、この出来事もまた苦悩の種となったが、私はほんの少しの時間、その苦悩を和らげる希望があった4。
誰からも愛されたヅィメルマンだったが、それにもかかわらず、彼は何人かの生徒の忘恩に苦しまねばならなかった。冷静を装ってはいたが、彼はそのことでひどく傷ついていた。もうひとつの失望が晩年の彼を苦しませた。音楽芸術に対する奉仕の砦、3幕の作品《誘拐》―その失敗はもっぱら台本が原因だった―の作曲者、《ノジカNausica》と題するグランド・オペラの作曲者、いくつものミサ曲、交響曲、音楽百科事典5の作者であった彼は、博識のレイハの没後、扉が開かれていた学士院会員への入会をつよく望んでいた。しかし、教授としての多大な名声、高度な学問の動かし難い証拠をもってしても、ある種の敵意には敵わなかった。ヅィメルマンは自身の不成功に、そしてとりわけ旧友のオンスローとオベールに見捨てられたことに大変悲しげな態度を見せた。
- カタラーニAngelica CATALANI(1780~1849)は「歌の女王」と呼ばれたイタリアのソプラノ歌手で、1804年にフランス人外交官と結婚したパリ住み活躍した。
- ヅィメルマンが再婚した妻との間に設けた長女Juliette (1822-1855) は3代に渡って活躍した画家の二代目ドゥビュフLouis-Édouard DUBUFE (1819-1883) と結婚した。彼女自身も彫刻を嗜んだ。マルモンテルはヅィメルマンの生前にジュリエットが亡くなったように書いているが、実際に彼女がなくなったのはヅィメルマン没後のことである。
- 息子はシャルル・エドゥアールCharles-Édouard (1827-?)といい、パリ音楽院でピアノを学ぶが何の賞も取らないまま退学してしまった。父の没後すぐに結婚したが、ヅィメルマンは息子の行動に強い反感を抱いており、彼に財産分与を認めなかったほどである。ところで、彼が結婚して家を出たのはヅィメルマンの死後であるから、マルモンテルの記述は不正確である。
- マルモンテルがヅィメルマンの後任として1848年にピアノ科教授の座に付き彼の教えを継承することになったという背景を念頭に置いている。
- 1840年に出版した『ピアニスト兼作曲家の百科事典』を指す。第一部、第二部がピアノのメトード、第三部が作曲教程という構成をもち、いわゆる百科全書派のような用語を説明する事典ではない。この著作はパリ音楽院の教材として使用され、生徒や後代の教授によっても参照された。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。