モシェレス 第3回 ― ロンドン、ライプツィヒでの名声
1821年、モシェレスは初めてロンドンに姿を見せた。その歓迎ぶりは、彼に定住を決心させるほどのものだった。高い音楽的地位に加え生来の上品さのおかげで、彼はほどなくイギリス貴族の間でもっとも愛され、高い人気を誇る大家の一人となった。もっとも、イギリスという我らフランスの隣国の人々の賛同を得ようとやってくる芸術家たちの真価に対して彼らが下す健全で公正な評価については認識しておくべきである。彼らは、見識と勇敢を二つながらに示す勇猛果敢な大家にしか市民権を認めない。彼らは自分自身の判断をさて置いて出来合いの名声は受け付けないし、むやみやたらと名声に歓声を上げたりしないのだ。とはいえ、イギリスにおいて音楽の趣味とはある人数のディレッタントの専有物でしかない。バッハとヘンデルのオラトリオの膨大なプログラムだけが一群のファンたちを真に魅了している。彼らはあの巨大な音楽盛儀に毎年、宗教的なまでに足を運んでいる。
あれやこれやの芸術家に伴う我々フランス人の評価や熱狂、流行りはあるにせよ、民衆的な演奏会に来る我らフランスの大衆はもっと玄人であるし、熱狂するものに対しても偏りがない。
モシェレスはイギリスの愛する客人となり、1821年から46年に至るまで25年に亘ってロンドンを棲家としたが、ヴィルトゥオーゾの戦闘的な生活、芸術旅行に別れを告げることはなかった。アイルランド、スコットランド、オランダ、ベルギー、パリ、ウィーン、ドレスデン、ライプツィヒ、ミュンヘン、ベルリン、ハンブルクはこの大芸術家が何度も訪れた地である。モシェレスが抱えていた多数の輝かしい生徒の顧客、王立音楽アカデミーでの教授職、フィルハーモニー協会の指揮者の役職があったので、彼はもう長期間の留守が出来なくなってはいた。だが、数か月の合間にこの傑出した作曲家、偉大な様式を備えた演奏家は自身のエコールの優越性を機会があるたびにはっきりと示していた。
私は、今の仕事を始めた最初の頃、何度もモシェレスからさし向けられ推薦された生徒たちを引き受けるという光栄に浴した。この名高い大家は、自身の弟子の中から私の教育を受けた多くの若いヴィルトゥオーゾを迎え入れた。弟子を相互に交換するなかで、私はモシェレスのメソッド、彼の見事で健全な伝統の秀逸さを直接に評価することができた。1846年、モシェレスはイギリスに別れを告げた。彼はライプツィヒに来てそこに腰を落ち着けた。この地では彼の傑出した生徒メンデルスゾーンに声をかけられたが、それというのも彼は音楽院のピアノ教育の指導をモシェレスに委ねようとしたからだ1。モシェレスが家族と共に北ドイツ連邦における芸術の一大中心地であるこの街に定住すると、彼のエコールは急速に名声を勝ち取ったが、この名声を裏付けていたのは途方もない名声とこの大家の倦むことを知らぬ熱意であった。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。