ファランク夫人 最終回:過去の音楽の編纂と最期
今回でファランク夫人の章は最終回です。この章を締めくくる最後の3段落は、お決まりの人相描写がきます。勤勉な作曲家、教育者、ピアニストであった彼女は晩年に出版者の夫と協力してルネサンスから19世紀のショパンにいたるまで、膨大な数の音楽を編纂し『ピアニストの至宝』というシリーズ名で刊行しました。夫が亡くなったあとは独力でその仕事を続けました。その仕事は今日「原典版」と呼ばれる学術的エディションに比較できるような厳正さで行われました。このシリーズのおかげで、人々は古今の名作を手に取ることが出来るようになったのでした。
この章を締めくくる一文には19世紀のジェンダー観を良く反映する文句が綴られています。「繊細な心によって女性であり揺ぎ無い才能によって男性的である」という評価がそれです。著者のマルモンテルも、ある面で女性の作曲に理解を示していましたが、やはり作曲や学識を男性の領分という当時のジェンダー的枠組みからは出ていなかったことが分かります。
ファランク夫人の人相は気品漂うが冷厳な一つの典型を見せていた。熱心で過剰なまでに勤勉な性質(たち)で、性格は控えめで思慮深く、このえり抜きの素質の人においては全てが内向的で自信に満ちた個性をはっきりと示していた。華奢でほっそりとした輪郭、青白い顔色、ややぼんやりとした眼差しは、面長の顔に苦行者のような特徴を与えていた。精神において彼女は大いなる廉直の精神、確かな判断力、厳格な正義感をもっていた。その上、彼女は傑出した教養ある社交人で、音楽家、一流の作曲家になりながらも、自分自身を教育する術を心得ていた。
ファランク夫妻は人生の晩年―アメデ・メローに倣って―彼らのあらゆる配慮を重要な出版物に注いだ。それは《ピアニストの至宝》と題する20巻からなる曲集でクラヴサンとピアノのための著名な大作曲家のあらゆる傑作を含んでいる。この重要な楽譜集は伝記的解説と様式、昔の装飾法―その伝統は識者と当時のメソッドの収集家にしか知られていなかった―についての正確な指示で充実したもので、ピアノの歴史の高尚な記念碑である。1872年、ファランク夫人はパリ音楽院教授を辞めたが、個人レッスンは途絶えることがなかった。だが仕事、[夫の]死が彼女の周りに漂わせていた悲しみと孤独で損なわれた彼女の健康は間近い彼女の最期を予告していた。1875年9月、彼女は勤勉できわめて模範的な人生によって堂々と勝ち取られた大いなる安らぎへと旅立った。
軽薄な世紀、熱にうかれた世代に迷い込んだ気丈な性質、堅固な良心、厳格で真面目な素質のファランク夫人は、彼女の類まれな良心とその深い知識に成功のすべてを手にすることはなかったとは言える。だが彼女の名は、繊細な心によって女性であり揺ぎ無い才能によって男性的であるこの芸術家の多彩な美点を評価できるすべての人々の想い出の中で生きつづけるだろう。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。