ジギスモント・タールベルク 第2回:「理想的な演奏」の体現者
パリを名声の確立地として、ヨーロッパ、東欧、アメリカを駆け巡ったタールベルク。その名声の秘訣は、広域な音域をカバーするアルペッジョを引きながら同時にゆったりとした旋律を聴かせる独自の奏法にありました。右手は旋律、左手は伴奏という古い演奏の先入観を覆したタールベルク旋風は一気にピアノ界を席巻したのでした。今回はパリ音楽院のピアノ教授ヅィメルマン宅での演奏会での描写の続きから始まります。
[ロッシーニのオペラ]モーゼに基づく有名な幻想曲は聴く者をたいへんに仰天させた[→参考音源参照]。人はこの力強い響きの秘密を注意深く看破しようとした。鍵盤の全音域を駆け巡るアルペッジョの奔流の下では、詩節ごとにいっそう力強く際立つ、美しくゆったりとした旋律は演奏されえないものと思われていた。ヴィアルド夫人がデュプレ1とモーツァルトのデュオを歌いに現れた時には、熱狂は絶頂に達した。後にイタリア座において、イ短調の練習曲―反復音で奏される旋律が両手に割り振られていた―がもたらした効果は、今なお私の脳裏に浮かぶ。この曲がパリ音楽院の修了選抜試験の課題曲に選ばれたとき2、殆どタールベルクが採用した[手の]配置に気づいているものは殆どいなかったので、思うに、ただ一人の女子生徒オラニエ嬢3以外の女子生徒は、古い伝統、つまり旋律を右手で、伴奏を左手で弾く伝統に従って演奏した。オラニエ嬢が踏み込んだ例外は、受験者と審査員なかに生き生きとした感情を生み出した。この大胆な生徒はその後すくなくとも、一等賞を取ることとなったが、その年は次席に甘んじた。
タールベルクは、パリ滞在を十分に延長して過ごした後、ヨーロッパを巡る長い一連の旅行に踏み出した。イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアで、彼は同様の熱狂で迎えられた。アンリ・エルツの例に従って、彼は自己流に新世界[アメリカ]を征服しようと考えた。アメリカ合衆国、ブラジルでは、素晴らしい歓迎を受けた。次いでタールベルクは新たな成功が彼を待ち受けるヨーロッパに舞い戻り、勝利と大いなる富を享受した。彼はラブラーシュの娘4と結婚した際にパリに館を買った。我々はロンドン、ナポリ、ロシアへの彼の数々の絶えざる旅行は辿らないでおく。だが1862年に彼がパリのサル・エラールで開いたコンサートに再び姿を見せたときのことには言及しないわけにはいかない。それは相変わらず理想的な演奏そのものだった。旋律の琴線に触れるような響き、走句の透き通るような清らかさ、そして豊かさ、力強さ、優雅さ。しかしながら、予測不可能なことが起きないこれらの完璧な演奏の質には、活気と聴き手に伝わりやすい情熱がかけていた。この大ヴィルトゥオーゾの模範とすべき見事な演奏を聴いていると、真の賛嘆の念に支配されることに気づく。だがショパンやリストを聞いているときのように、心臓は鼓動を強めることはなかった。理想的な美を備えた女性、つまり生き生きとした彫像は感嘆を催させるが、魅力、精神、感受性は、穏やかで冷静、かつ心を開くことのできるような美よりも一層生き生きと、想像力に働きかける。
- 前回連載注7, 8を参照のこと。
- 公式の記録では、タールベルクの「練習曲」が修了選抜試験の課題曲に選ばれたことはない。タールベルクの作品が初めて課題曲となったのは、1842年女子クラスの修了選抜試験のことで、その年は「幻想曲」が演奏されたとだけ記されている。
- オラニエClémentine-Marie Aulagnier (1827-?)。音楽院関連の一時資料によれば、彼女がコンクールに参加して受賞した時期(1844年次席、1845年一等賞)とタールベルクの作品が女子クラスの課題曲に選ばれた年(1842年)は一致しない。つまり、マルモンテルの記述はあいまいな記憶に基づいている。但し、彼女は年度末の選抜修了試験以外では確かにタールベルク作品を演奏している。1842年6月の試験:ベッリーニの「ストラニエーラ」に基づく幻想曲 作品9、1843年11月の試験:「トレモロ」と記された小品(《練習曲集》作品26-8か)。
- ラブラーシュの娘:彼女のラブラーシュLuigi Lablache(1797-1858)はナポリ出身(父はフランス人、母はアイルランド人)の著名なバス奏者。1852年までパリのイタリア座で歌い、モーツァルト、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニらの作品上演で名を成した。タールベルクと結婚したのはその娘の一人である。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。