19世紀ピアニスト列伝

ダニエル・シュタイベルト 第3回 ベートーヴェンとの 「対決」と放浪の生活

2014/07/22
ダニエル・シュタイベルト
ダニエル・シュタイベルト
(1765~1823)
ベートーヴェンとの
「対決」と放浪の生活

いかに才能に恵まれていても、勤勉さ、社交性、自らを律する道徳的精神がなければ19世紀の音楽界で生き残ることは困難でした。才能を持て余しながら、シュタイベルトは人間的な問題から多くの損を引き受けなければなりませんでした。今回訳出した3段落には、才能と釣り合わない彼の人間性、それがもたらした放浪の生活について語られています。

さらなる成功がシュタイベルトを待っていた。ちょうどその頃、彼は流行の教師として人気を博していた。総裁政府時代1のエレガントな人々や第一帝政期2のかつての宮廷の習慣を真似ようとするにわか貴族たち3は、この著名なヴィルトゥオーゾのレッスンを求めた。だがこの熱狂は長くは続かなかった。シュタイベルトの教養の欠如、無作法な奇行、粗野な行動によって彼はパリを離れることを余儀なくされ、一連の外国旅行に富を追い求めざるを得なかった。オランダ、イギリス、ハンブルク、ドレスデン、ウィーンで彼は何度もコンサートで演奏した。ウィーンでシュタイベルトは、格別の勇を奮ってベートーヴェンとの戦いに挑んだが、不器用さには直ちに罰が下った4。シュタイベルトは恐れを知らずにこの大家の主題に基づいて彼のお決まりのトレモロを伴う凡庸な変奏付きの即興をした。テーマは見事だったが[続く]幻想曲は、はるかに劣っていた。それから数日後ベートーヴェンは、シュタイベルトの三重奏曲のバスパートを主題として月並みな主題に基づく驚くべき楽想を作曲した5ベートーヴェンの自称ライヴァルに課されたこの無情な教訓は、シュタイベルトの安易な信奉者が挑んだ同種の試みに終止符を打った。

絶えず借金に追われる向こう見ずな生活をするこのベルリンのヴィルトゥオーゾは、どこにも根を下ろすことができず、更に二回、1800年と1805年、財産形成のためにパリを訪れた。我々は、ハイドンの至高のオラトリオ、『天地創造』の上演を彼の最初のパリ再訪に負っている。シュタイベルトによって散文に訳されたこの作品の詩は、ド・セギュール子爵によって韻文に書き換えられ、この著名なヴィルトゥオーゾによって音楽に合うように翻案された。この傑作の初演は、革命歴9年雪月3日6にオペラ座で行われた。その日は、仕掛け爆弾の爆発事件の日7である。

この翻訳の仕事には大変多くの給料が支払われたが、この放浪の芸術家は大衆の夜会での金銭的成功は、諦めなければならなかった。あまりに確実な数々の出来事に裏付けられた嘆かわしい世評によって彼は殆どのサロンから締め出された。彼はパリを離れ美しいイギリス人の若妻とロンドンへ行った。シュタイベルトは彼女の魅力と魅惑を強調しようと彼女のためにピアノとバスクの太鼓のための『バッカナール』を作曲した。優美な若いバッカス神の巫女8に捧げられたこれらのオマージュは、これらの作品のごく月並みな作者を大変満足させたようだ。

シュタイベルトはロンドンで輝かしく実り多いコンサートを開いたが、成功にもかかわらず常に金欠で、音楽的価値のない大量の幻想曲と編曲作品を書いた。彼は二つのバレエ音楽『美しきミルク売り』9と『パリスの審判』10も作曲した。歴史を紐解いても、美しいシュタイベルト夫人が『造形的絵画』11の上演に自らのタンバリン伴奏で参加したかどうかは分からない。

  1. 総裁政府時代 : フランス大革命後に設置された国民公会に続く政治体制。国民公会解散後の選挙に基づいて1795年11月2日に樹立。過激なジャコバン派の首領ロベスピエールの血なまぐさい恐怖政治への不信から、ジャコバン穏健派のP. バラス、J.-L. タリアン、J. フーシェらはロベスピエールを失脚・処刑させ実権を握り、革命的風潮に反動的な王党派・過激な革命路線の恐怖政治の中道を行く政治体制の実現を目指した。バラスは総裁の一人に選出された。1799年11月9日、ナポレオンの軍事クーデターで政権は崩壊し、執政政府が樹立された。
  2. 第一帝政 : 過去の連載「ヤン・ラディスラフ・デュセック 第2回 栄華と零落」脚注7参照
  3. にわか貴族たち : ナポレオンによって打倒された総裁政府に続く執政政府時代(1799~1804)に3名の総裁の一人ナポレオンの下で軍功を挙げ、家柄や伝統的財産に関わらず第一帝政期に高い地位について権力の一端を担った人々のことを指す。
  4. シュタイベルトとベートーヴェンの「対決」:この逸話はベートーヴェンの門弟でピアニスト兼作曲家のフェルディナント・リース(1784-1838)の回想(『L. v. ベートーヴェンに関する電気的覚書』、1838)に記述されている。
  5. このエピソードはベートーヴェンにまつわる映画や書籍の題材となり、ベートーヴェンの天才を際立たせる場面として演出されてきたが、無論、著者のマルモンテルはこの「対決」を聞いたわけではなく、この挿話のみに基づいてシュタイベルトの創作や音楽性全体を軽視する態度は軽率であろう。シュタイベルトのソナタや練習曲はこれまでに録音もされており再評価は少しずつではあるが進んでいる。また、ピアノ演奏技法史においては18世紀初期の野心的なピアニスト兼作曲家としてまだ研究の余地を多く残している。
  6. 革命歴9年雪月3日 : 1800年12月24日。フランス革命期、王政の廃止に伴い宗教的背景を持つグレゴリオ暦の使用が廃止された。王政が打倒された1792年9月22日を革命暦元年元日として一年が12の月に分けられた。
  7. 仕掛け爆弾の爆発事件 : 王党派によるナポレオン暗殺未遂事件。この日の上演にはナポレオンが隣席しており、オペラ座前で仕掛け爆弾が炸裂した。複数の死傷者を出したがナポレオンは難を免れた。
  8. シュタイベルトの妻をバッカスの巫女にたとえている。バッカスの巫女は、酒神バッカスの神秘を祝う女性たち。ギリシア神話ではデュオニソスの名をもつ。バッカナールは一般にバッカスに捧げられた祝祭的音楽。
  9. 『美しきミルク売り あるいは 白衣の女―カスティーリャ女王』: 1805年1月26日にロンドンで初演されたバレエ作品。パリでは序曲のスコアが1806~1807年の間に出版された。
  10. 『パリスの審判』:ギリシア神話で3人の女神(ヘーラー・アプロディーテー・アテーナー)の内「最も美しい女性」の決定をめぐって繰り広げられる物語に基づく。パントマイムつきのバレエ音楽でスコアは恐らく出版されなかった。作曲者自身により抜粋編曲は1805~1807年の間に出版されている。
  11. 『造形的絵画』:原文ではイタリックで書いてあるため作品名のように見えるが、現在のところこのようなタイトルの作品は確認できない。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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