ルイス=モロー・ゴットシャルク 第3回 : ヨーロッパから北米、南米制覇の旅
ショパンと比較された繊細な演奏・人柄と、作品のたたえる異国的情緒がもたらした名声がきっかけとなって、ゴットシャルクの名声はフランスからその他のラテン系諸国で急速に広まります。スペインではすぐさま国のアイドルなり、北米では大陸横断の演奏旅行を成し遂げます。キューバ、南米大陸諸国でも高い人望を得て、人々から慕われました。
王妃たっての願いでスペインに呼ばれたゴットシャルクは、ボルドー、バイヨンヌ1でいくつもの演奏会を開いたが、これは[イベリア]半島の全ての大都市、とりわけマドリードで彼を待っていた勝利の喝采への前奏曲となった2。著名なヴィルトゥオーゾは並々ならぬ熱狂を引き起こした。市役所からは賛辞が贈られ、宮廷のもっとも傑出した名士たちに紹介され、エスコリアル3でも同様の熱狂で迎えられ、歓待を受け、喝采を浴び、称号を授かり、ゴットシャルクは、部隊を観閲するという特別な名誉にさえ浴した。これは熱狂の軍事クーデターといってもよいことだった。だが、父の急な求めでアメリカに呼ばれたゴットシャルクはスペインを離れなければならなかった。だが、マドリードの愛好家(ディレッタント)たちが彼に捧げた栄冠は忘れずに持ち帰った。その栄冠には次のような銘が刻まれていた。「スペインの詩人、ゴットシャルク」。もし伝説を信じるなら、彼は内親王の心までも持ち帰ったことになる。この小説のような恋愛事件によって、スペイン政府がゴットシャルクにマドリードを発つよう請うことを決めた、ということになるだろう。
ゴットシャルクは急いでポルトガルを横断しアメリカ行きの船に乗った4。アメリカでは、彼はあらゆる方向へと駆け巡った。彼は、故国の預言者であるばかりか、諺5などお構いなしに、激しい全国的な熱狂を集め、リスト、アンリ・エルツ、タールベルク6に匹敵する喝采を浴び、かくして彼の名声は普遍的なものとなった。しばらくして、彼は新世界征服を成し遂げた。ニューヨーク、ニューオーリンズでは、彼の来訪は熱烈な歓声で迎えられた。群衆に宿まで導かれ、行政官の訓示を受け、彼はまごうかたなき勝利を収めたのだった。数々の演奏会の収入は尋常ならざる金額に達し、アメリカの貴婦人達はさらに、これにダイアモンド製のボタンを上乗せし、親愛なる同郷人への個人的な土産とした。
スペインを離れたとき、ゴットシャルクは、王妃がキューバの総督に当て宛てた推薦状を携えていた。彼の大きな芸術的名声にこの庇護が加わったことで、ハバナでの極めて熱烈な歓待はそれに見合うものとなった。彼は数日で島のアイドルとなった。それゆえ、放浪の習慣が身についていたにもかかわらず、彼はこの魅惑の島に長いこと滞在した。この島の忠実な友達のもとへ彼は何度も舞い戻って愛情に包まれた生活に身を浸した。それが彼の優しい性格に素晴らしく合っていたのである。私はゴットシャルクとの友情を誉れとするハバナの名士と何人も知り合ったが、彼の親友エスパルデーロ7のように、誰もが彼に深い愛着と限りない賞賛の念を抱いた人であった。
ゴットシャルクは1855年、ニューヨークにもどり、たいへん華々しく人気を博した数多くのシリーズコンサートを開いた。北米、南米、チリ、リマ、セント・トーマス島、トリニダード、ポルトープランス、プエルトリコを歩き渡る巡礼を追う必要はない。著名な興行主ストラコシュ8、当時14歳のパッティ9は大陸をまるごと横断する芸術旅行を企画した。1860年に始まったこの旅行10は、三年間続いた。疲労と勝利、苦労と喜び、突発的な感情と持続的な感情の連続は、最も強靭な気質をも打ち砕くべきものだった。ゴットシャルクがそこで命を落としたのはそれからほどなくのことだった。
演奏者ジーン・ベーレントJeanne Behrend(1911-88)年生まれのフィラデルフィア出身の女性ピアニストで、ピアニスト兼作曲家、教育者として活躍。ジュリアード音楽院、フィラデルフィア音楽院、テンプル大学で教鞭をとり、また校訂者としてはゴットシャルク作品の編集を手がけました。
《ザ・ユニオン―国民歌に基づくコンサート用パラフレーズ》は国歌をはじめとした有名なアメリカの歌に基づくものですが、複数の歌が同時に組み合わせるなど巧みな手法が見られます。冒頭のモチーフは後に出てくる歌「ヤンキー・ドゥードゥル」の旋律(日本では「アルプス一万尺」で知られるメロディ)から取られています。63年にこの曲がニューヨークで出版された当時、アメリカは南北戦争の只中にありました。原題の「The Union」は南北戦争中のアメリカ(北部の連邦政府)の呼称です。
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バイヨンヌ:フランスの南西に位置し、仏西国境にほど近い都市。
- ゴットシャルクのスペイン旅行は1851年から52年に及んだ。
- エスコリアル:スペインのちょうど中央に位置する自治体エル・エスコリアル。当時は人口千人代の小規模都市だった。
- ゴットシャルクがスペインを離れニューヨークに到着したのが1853年1月のことで、父は10月に亡くなった。このあとの驚異的な演奏旅行の数々は、父から引き継いだ借金を支払い、家族を養うことも大きな目的だった。
- 聖書から取られた諺で、「何人も自国では預言者になるものはらないNul n'est prophète en son pays.」を指す。
- 出版、教育によって普遍的な名声を得ていたリストに加え、エルツとタールベルクはアメリカ大陸で大規模な演奏旅行を行い、熱狂を巻き起こしていた。(エルツについてはこちらの過去記事参照、タールベルクについては事典の記事を参照。)
- エスパルデーロRuiz Espadero, Nicolás(1832-1890)キューバの作曲家。ハバナで母から手ほどきを受け、その後ショパンの親友・協力者でピアニスト兼作曲家のユリアン・フォンタナ(1810-1869)の指導を受ける。スペイン、キューバで指導者、ピアニスト兼作曲家として名をなす。フランスでも60年代から90年代にかけて出版者エスキュディエが彼の作品を多く出版した。
- ストラコシュMaurice Strakosch (1825-1887) : チェコ出身のアメリカの興行主。後出のソプラノ、アデリーナ・パッティの娘と結婚した。
- アデリーナ・パッティ(1843-1919) : イタリアの名ソプラノ。前出の興行主ストラコシュの義理の妹で、神童として彼に連れられてアメリカ旅行に出た。ニューヨークではオペラデビューも果たし、幅広い音域と表現力で以後、英、仏、伊、露を初めヨーロッパ中で高い評価を得た。パッティとの旅行は1857年のこと。実際には58年にパッティはアメリカに帰っている。
- 実際には、ゴットシャルクがアメリカ横断旅行に乗り出したのは南北戦争最中の1862年のこと。政治的には、ゴットシャルクは北部の連邦政府を支持し、この立場表明の機会としても演奏会を利用した。PTNAピアノ曲事典FB過去記事も参照。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。