19世紀ピアニスト列伝

ルイス=モロー・ゴットシャルク 第2回 : パリ・デビューとショパンの賞賛

2014/06/02
パリ・デビューとショパンの賞賛

1840年代初頭、大西洋を渡ってアメリカからパリにやってきたゴットシャルク。数年間の勉学の後に待っていたのは熱狂の渦でした。45年のパリ・デビューにはショパンも足を運び、若きゴットシャルクの未来に大きな期待を寄せ、賛辞を惜しみませんでした。

1841年1、ゴットシャルクは神童の音楽教育の完成を目指してパリにやってきた。シャルル・アレ、そして分けてもカミーユ・スタマティが彼の師となった。1844年2、彼は大変愛情を注いでくれたプレイエルの会場で最初の演奏会を開いた。ショパンもまたこの若き芸術家に対する好感を隠さなかった。彼はこの繊細な性格の持ち主に、自分のとよく似た優しく鋭敏な素質を認めて喜んでいたのだ。マルダン3から和声のレッスンを受けた後、ゴットットシャルクは作曲を始め、自作のバラードを書いた。《オシアン》4、《バンブーラ》5、《バナナの木》6、《サバンナ》7、《オシアン風舞曲》8、《マンチニール》9などの作品は、1848・49年10に出版されたが、まだ素描の、下絵の段階であった。

私がゴットシャルクと知り合ったのは1848年のことだ。カミーユ・プレイエル11が、大変将来の有望なヴィルトゥオーゾとして彼のことを知らせてくれたのだった。彼の最初の演奏会を聴いているので、次の賛辞はいささかの誇張も含んでいない。上品で控えめな彼の素質によって、彼は第一に好感のもてる人物だった。表現豊かな演奏、ショパン風の響きはすっかり聴く者を魅了していた。彼の名声が生まれ、その初期作品の[発行部数]は急速に増えていった。エスュディエ社で版が彫られ、たちまち成功を得たのだった。

これらの作品に見られる大変際立った個性を見誤るなどということはあり得なかった。着想の魅力、和声の優雅さは全く独特で、あくまで固持されるリズムの運びと調和している。これらの物憂げなクレオールの旋律、律動的な拍を持つ黒人の舞曲はゴットシャルクの作品にある領土の趣味、特別な香り、比類なきまでに真正な地域色の精彩を添えている。

1849年、ゴットシャルクはサヴォワとスイス12を旅行した。彼はロシアの大公爵夫人に紹介され、彼女はロシアの上流貴族社会に、平常の厚意と歓迎の意をもって彼を迎え入れた。大変高く評価されたゴットシャルクは、イヴェルドン13で慈善演奏会を開いて慈悲心を表した。1850年から51年にかけて、彼は多くの会合で演奏した。彼の輝かしく表現豊かなヴィルトゥオジティはショパンの美点を思い出させるものだった。判断力に優れたカミーユ・プレイエルは、若き友人の中にピアノの詩人の、うっとりするような繊細さが見出されると言って憚らなかった。この時期、ゴットシャルクは《若きアンリの狩り》14の見事な編曲を私に献呈して、好意を示してくれた。この曲を、彼は私の生徒で友人のジョゼフ・ヴィエニアフスキと二台ピアノで演奏した。彼の幻想曲《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》15も同年代の作品である。

音源視聴コーナー
L.-M. ゴットシャルク《バンブーラ:黒人たちの踊り、幻想曲》作品2(1849刊)
(ピアノ:ベーレント・ジーン(1911-1988))

バンブーラはシンコペーションを特徴とするアフリカ系住民の踊りで、ハイチが発祥とされる。その後アメリカへともたらされ、ゴットシャルクの住んでいたルイジアナ、ニューオーリンズにも既に18世紀にもたらされていた。

  1. ゴットシャルクがパリに発ったのを実際には1842年5月とする資料もある。
  2. このデビューコンサートは実際には1845年4月2日のことである。
  3. マルダン:Pierre Maleden (1806頃~ ?) : リモージュ出身の音楽理論家、教育者。1829年から31年にかけてF.-J.フェティスに師事、その後ドイツのダルムシュタットで著名な理論家ゴットフリート・ウェーバー(1779-1839)に学んだ。リモージュで音楽学校を経営したのち、1841年にパリに出て対位法の教師となった。
  4. 副題は「2つのバラード」。オシアンは3世紀ころにスコットランドで活躍したとされる伝説的な詩人。L. M. Gottschalk, Ossian, 2 ballades pour piano op. 4, Paris, Bureau central de musique, 1850. 作曲年代:1847-49。
  5. 副題は「黒人たちの踊り、幻想曲」。Idem, Bamboula. Danse des nègres. Fantaisie pour piano op. 2, Paris, s.n., 1849. 作曲年代:1846-48。バンブーラはシンコペーションを特徴とするアフリカ系住民の踊りで、ハイチが発祥とされる。その後アメリカへともたらされ、ゴットシャルクの住んでいたルイジアナ、ニューオーリンズにも既に18世紀にもたらされていた。
  6. 副題は「黒人たちの歌」。Idem, Le Bananier, chanson nègre pour piano op. 5, Paris, Bureau central de musique, 1850. 作曲年代:1848。
  7. 副題は「クレオールのバラード」。Idem, La savane, ballade créole op.3, Paris, s.n., 1849. 作曲年代:1847-49。
  8. Idem, Danse ossianique composée pour le piano op. 12, Paris, Bureau central de musique, 1851. 作曲年代:1850。
  9. 副題は「セレナード」。Idem, Le Mancenillier, sérénade pour piano op. 11, Paris, Bureau central de musique, 1851. 作曲年代:1849-50 ?. マンチニールは熱帯に生えるトラダイグサ科の樹木で、その実は毒性が非常に強く、危険視されている。
  10. 《マンチニール》、《オシアン風舞曲》、《バナナの木》は実際には50・51年に出版された作品である。
  11. 二代で全盛期を創りだしたピアノ製造者プレイエル父子のうち、息子のカミーユ・プレイエルで、会社の経営にあたっていた。
  12. スイス旅行は実際には1850年の夏のこと。
  13. スイスのヴォー州にある街、イヴェルドン=レ=バンを指す。
  14. L. M. Gottschalk, La chasse du jeune Henri, morceau de concert op. 10, Paris, Bureau central de musique, 1851.
  15. Idem,God save The Queen, morceau de concert pour le piano op. 41, Paris, L. Escudier, 1862.

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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