シャルル=ヴァランタン・アルカン 最終回
リストやシューマンも弾いた「ペダリエ」と呼ばれた足鍵盤つきのピアノの演奏に秀でていたアルカン。その技量は、サン=サーンスやヴィドールといった輝かしい後輩たちからも高く評価されていました。本文後半はアルカンの人相を描写します。
現代の流派には頻繁なテンポの変化が非常によく見られるが、 メトロノームの拍を厳格に遵守するアルカンはその影響を全く受けていない。彼は飛び抜けて華麗にペダリエ[足鍵盤付きピアノ]1を弾き、著名なオルガニスト・ピアニストのサン=サーンス2、ヴィドール3、フィッソ4、ギルマン5、ドラボルド6といった、このジャンルにおける彼のライヴァルや教師たちも彼の演奏を認め、賞賛した。そして、その誰もが勇ましき老古参者の見本に従い、バッハ、ヘンデル、メンデルスゾーンの作品に敬意を表した。これらの作品の演奏において、ペダリエは積極的に音楽的な対話の一翼を担い、ピアノとオルガンの調和を完成させた。
我々は、いくつかの写真が我々に見せているような、背後から見たヴァランタン・アルカンの肖像を描いているのではない。彼の知的で独特な容貌は、横ないし正面から見つめる価値がある。頭はがっしりとしていて、発達した額は思想家のそれである。口は大きく、笑みを含み、鼻は均整が取れている。年月が経って口ひげと髪は白くなり、いくらかしわの跡が刻まれ、全体が引き立てられている。目は細く、少々嘲笑的である。アルカンは現在64歳である。かしいだ歩き方、清教徒のような出で立ちは、英国国教会の司祭かラビ7のような外見を与えている。ラビについて彼は博識であった。
研究、洗練されたエスプリ、倦むことを知らぬ努力の人、アルカンは、ピアノのフランス楽派の頂点を支える傑出した芸術家の一団の中で、もっとも高度な知性、もっとも普遍的なエスプリを備えた一人である。筆者は公にこの敬意を我が傑出した同僚に表することができて幸いである。我々の人生の一時期、1848年にヅィメルマンのクラスの教授ポストが空いたことにから生じた闘争熱に起因する残念な誤解により我々は互いに距離を置いたが8、それでも我々の相互の敬意は変わることなく、私の側としては、この芸術家への心からの賞賛、この勤勉な探求者、力強い創造者への強い好感が薄れることはない。
- ピアノ・ペダリエはピアノ製造者エラールが1840年代に開発した足鍵盤つきのピアノのこと。PTNA サイト内の記事参照。
- サン=サーンスはアルカンが晩年にエラール社屋で催した古典音楽コンサートの共演者でもあった。サン=サーンス、ヴィドールといった二人のオルガンの大家がアルカンを賞賛しているということの意味は極めて大きいが、足鍵盤つきピアノのために書いたアルカンの《ルターのコラール〈我らの神は〉堅き砦に基づく即興曲》作品69(1866)のような大規模作品は彼のオルガニスト、ピアニストとしての力量を十分に裏付けるものである。
- ヴィドールCharles-Marie-Jean-Albert Widor(1844-1937)はフランスのリヨン出身のオルガニスト、作曲家。オルガン製作者の家庭に生まれ、父の手ほどきを受けてオルガン演奏の頭角を現した。ベルギー滞在中、それぞれJ.-N.レメンスとF.-J.フェティスの下でオルガンと作曲の腕に磨きをかけたのち、1863年にパリでオルガニスト兼作曲家として活動を始め、70年1月にはサン=シュルピス教会のオルガニストの地位を得た。著名なオルガン製作者のカヴァイエ=コルとは家族ぐるみの付き合いがあり、彼の制作した多くのオルガンの初演を手がけた。1890年にパリ音楽院オルガン科教授を勤めていたC. フランク が亡くなるとその後任となり、オルガン教育の刷新に着手した。96年には作曲家教授で音楽院院長のテオドール・デュボワの後任として作曲家教授となり、31年の在職期間のうちにミヨーやヴァレーズら20世紀の楽団の旗手の教育に携わった。今日ではオルガン交響曲(10作)がよく演奏される。
- フィッソAlexis-Henry Fissot(1843-1896)フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。8歳でパリ音楽院に入学しピアノ、オルガン、対位法など5つの部門で一等賞を獲得する才人だった。ピアノはマルモンテルのクラスで学んでいる。
- ギルマンAlexandre Guilmant, (1837- 1911)はフランスのオルガニスト、作曲家。地元ブーローニュでキャリアの地固めをした後、60年にヴィドールと同じくブリュッセルでラメンスの手ほどきを受ける。パリに出てオルガニストとして名声を勝ち取り、71年にはサン=トリニテ教会のオルガニストに就任した。
- ドラボルドÉlie-Miliam-Éraïm Delaborde(1839-1913)はフランスのピアニスト兼作曲家。アルカンがリナ・エライン・ミリアンという上流階級の助成との間に設けた私生児と言われている。アルカン、ヘンゼルト、モシェレスから手ほどきを受け、若くしてコンサート・ピアニストとして活躍。1873年には、ルイーズ・ファランク(1804-1875)の後任としてパリ音楽院ピアノ科女子クラスの教授となり、19世紀ドイツのレパートリーや父の作品を生徒に紹介した。1900年頃からピアニスト兼作曲家のイシドール・フィリップ(1863-1858)とともにコスタラ社からアルカンのピアノ曲集シリーズを出版した。
- ユダヤ教の聖職者。
- 1848年にパリ音楽院の師ヅィメルマンの退職に伴いアルカン、マルモンテルを含む後継者が4名挙げられ、結局マルモンテルが教授に任命され、アルカンは師のポストを継げなかった。この一件で、アルカンはマルモンテルを影で執拗に攻撃した。
本連載訳者の上田泰史さん(PTNA研究会員)は、カワイ出版から初級ー中級(一部上級)者向けの楽譜『アルカン・ピアノ曲集 I・II』を校訂されました。この楽譜制作は、PTNAでの連載がきっかけとなっています。校訂には、PTNA演奏会員で作曲家・ピアニストの林川崇さんも協力者として関わりました。
カワイ出版のYoutubeチャンネル「editionKAWAI」でアルカンと、これらの楽譜に関する上田さんのインタビューが閲覧できます。楽譜収録曲の音源やパリで撮影したアルカンゆかりの地などの写真も充実した動画です。下記からご覧くださいませ。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。