ヤン・ラディスラフ・デュセック 最終回 ライバル、シュタイベルトとの比較
ヴィルトゥオーゾの語源は「人の美質」、すなわち「徳」を意味するラテン語virtus。ヴィルトゥオーゾとは本来、「人間としての徳を備えた人」という意味です。さて、ボヘミアのピアニスト兼作曲家ドゥシークの最終回は、18世紀末から19世紀初期に一世を風靡したヴィルトゥオーゾ、ダニエル・シュタイベルトとの比較で締めくくられます。シュタイベルトの名を聞いて、ベートーヴェンとの「即興対決」のエピソードを思いだす方もおられるでしょう1。両者の対比を通した「ヴィルトゥオーゾ論」が演奏や作曲の技量のみならず、人格、品格にも及んでいる点からは、ヴィルトゥオーゾの本来の意味がまだ19世紀末にも生きていたことがわかります。
しばしば、シュタイベルトとデュセックは互いに比較の対象となったが、この二人は、作曲家、ヴィルトゥオーゾとして全く異なっていた。豊かで肥沃な想像力に恵まれたシュタイベルトは、好ましい霊感で輝きを放つ幾ページを驚くほど容易に即興した。だが、作品を書くとなると、殆ど推敲されておらず散漫で、十分とは言い難かった。様式をいっそう完全なものとすることには無頓着で、確固たるプランを持たないシュタイベルトは、魅力的な着想を狂ったように書き散らかした。良識ある芸術家ならば、そこから素晴らしい解決策を引き出すことができたであろうに。反対にデュセックは、シュタイベルトほど豊かな想像力は持ち合わせておらず、また「天才的」でもなく―ドイツ人ならこう言うだろうが―純粋な対位法作曲家ではなかったとはいえ、正確かつ推敲されたイディオムの中で見事な音楽的言語を書くための和声学の奥義を十分に把握していた。
この二人の芸術家は、作曲家の美点において異なっていたが、それと同じくらいヴィルトゥオーゾの才能という点でも著しい違いがあった。これに道徳的という観点も加えよう。人間と音楽家においては、素質、性格の上でこれと同様の対照・対比が見られるものだ。デュセックは、自身をコントロールし、きちんとして良識があり、整然としているのを常とし、完璧な判断力を働かせつつ、高貴な様式で、堂々たる着想、形式の作品を演奏していた。寛大な友、社交人、教養と才気あふれる彼の演奏は、その人格のあらゆる性質を備えていた。彼はピアノを歌わせて聴く者をうっとりとさせ、同時にどうすれば輝かしく斬新な走句が生み出す好ましい大胆さで熱狂を引き起こされるのかも心得ていた。
シュタイベルトは、感情の繊細さ、教育、性格において不十分な点が認められたが、その驚くべき輝きと幻惑によって大衆と強力な庇護者の好意を勝ち得た。大変な腕前の持ち主ではあったが様式が不確かなヴィルトゥオーゾで、また天才的な旋律作曲家である彼の、表情豊かで歌唱的かつ情熱的な音楽は、霊感で輝いてはいるものの、豊かで多様な着想は脈絡なく次々に現れ、互いにぎこちなく結ばれ、とりとめのない即興のようである。シュタイベルトは常に効果を狙い、それを得るためにしばしば良き趣味を犠牲にしていた。そしてそのことを殆ど気にかけてはいなかった。彼こそが、反復音のパッセージと変奏とトレモロ付きの幻想曲2を、かくも大いに流行らせた張本人である。彼はこれらの技巧に関しては抜きん出ていたのだ。それは当時、驚きと賞賛の種であった。
シュタイベルトは群がる愛好家らを幻惑させたものの、その人柄といえば殆ど感じの良いものではなかったし、まして尊敬に値する人ではなかった。これとは正反対に、デュセックは、その信望、上品な作法、教養、研ぎ澄まされた精神によって人を惹きつけ魅了した。愛想がよく親切で、忠実なこの大芸術家は、さらに才気走った話者としての名声もあった。
デュセックはクレメンティ、クラーマー、カルクブレンナー、エルツのように、流派(エコール)を成しはしなかった。彼の名を自らの誇りとし、彼の門弟であることを自他ともに任ずる著名なピアニストの名は一人として挙げることができないが、この傑出した大家は、作曲家、ヴィルトゥオーゾとして従うべき素晴らしい伝統を残したのだ。私は一年間、デュセックの非常に卓越したひとりの女生徒、ド・B婦人にレッスンをしたことがある。この婦人は、私よりも30歳も年上の非常に才能のあるピアニストだったが、彼女が私のところにやってきたのは、恐らく教育にもたらされた変化を報告するためだった。ド・B婦人は、心から感嘆して、デュセックが音を表現する見事な手法や彼の高貴で簡潔な様式、歌唱的なフレーズを弾くときの深く印象的なタッチ、色彩感を与える輝かしい彼の演奏について語った。にもかかわらず、彼女は私と同様に、現代の表現様式にもたらされた改良が、力強い効果と甘美な効果、多様な音色、響きのうねり、流暢な快い響きに適していることを認めていた。先代のヴィルトゥオーゾはそれらを生み出す術をしらなかったのだ。こうしたことは、細部の欠陥・不備であって、デュセックが生きたまさにその時代に固有のものなのである。このピアニストがそれでもなお、最も興味深く、好感の持てる人物であることには変わりはない。今日でも、強く輝きながらステファン・ヘラー、リスト、シュルホフ3が継承している異国作曲家の輝けるかの集団の最初の祖先の一人として。
第8変奏冒頭。
- 1800年、シュタイベルトは自作の主題による即興をベートーヴェンの前で披露したが、ベートーヴェンは、今度はその主題を逆さまにして即興を披露し、シュタイベルトが敗北を期したという逸話。原典はベートーヴェンの門弟フェルディナント・リースとF. G. ヴェーゲラーの著書『ルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンに関する伝記的覚書Biographische Notizen über Ludwig van Beethoven』(1838)。
- 彼の書いたトレモロのパッセージの一例として、譜例に示す《「イシアの神秘」のアリアに基づく9つの変奏つき幻想曲》の第8変奏冒頭を参照。
- シュルホフJules Schulhoff (1825-1898)はチェコ出身のピアニスト兼作曲家。類まれな才能のヴィルトゥオーゾで、ドレスデン、ライプツィヒで華々しいデビューを飾った後1843年に到着。ショパン、アルカンら当時の先進的音楽家に認められ出版活動を始めた。彼の《アレグロ》作品1(1845)はショパンに、卓越したソナタ作品37はリストに捧げられている。作曲家エルヴィン・シュルホフ(1894-1942)の大叔父にあたる。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。