ヤン・ラディスラフ・デュセック 第3回 優美で繊細なその作品
今日、ドゥシークの作品は、まだ演奏会のレパートリーとしては十分に確立されていませんが、とくにフォルテピアノ奏者や研究者のあいだで近年ますます注目が集まっています。ベートーヴェンに先駆けた優れた構築力と大胆な和声語法、野心的なピアノ技法を駆使したソナタは豊かな18世紀音楽シーンを彩る不可欠なピースです。今後、ピアノ曲事典用の録音も増やして行きたいところです。
デュセックの作品は、作品番号にして80を数える1。12のオーケストラ付き協奏曲、2台ピアノのための協奏的交響曲2、ピアノと弦楽器のための5重奏曲3と4重奏曲4が一曲ずつ、数多くの協奏的ソナタ、つまりフルート、ヴァイオリン、チェロの伴奏付きソナタ、9つの4手用2重奏曲、3つの4手用フーガ5、1曲のフーガ付き幻想曲6、53のピアノ独奏ソナタ。フェティス7は更に、彼の伝記の中で、ロンドンで上演された二つのオペラ8、荘厳ミサ曲9、複数のドイツ語オラトリオ10、あまたの声楽、宗教作品を挙げている。
我々はまた、軽い音楽、数多くのロンド、エール・ヴァリエ、そして魅力的な夢想曲(レヴリー)の中でも、次の作品を挙げておかねばならない。《告別》11、《慰め》12、人気のロンド《我が軽き小舟》13、ロンド《ラ・マチネ》14、「アンリ4世万歳」15、「賛歌を歌わん」16に基づく変奏曲等々。デュセックはまた、イギリスで一冊のピアノメソッドも出版しフランスで翻訳されたが、この著作は、殆ど出版されなくなり、印刷用プレートは失われる運命にあった。
これらの作品は、全てが等しい価値を持っているわけではない。いくつかの作品は、特に古く、面白みに欠けるように思えるものもある。しかし、デュセックは趣味と流行の変化を重視してはいるが、この時代の類まれなる巨匠の一人であり、その音楽は古典的な教育のレパートリーに含まれ続けている。例えば、協奏曲第5,6,7,12番、ソナタ作品9, 14, 35, 48, 《パリへの帰還》17、《クレメンティへの別れ》18、《祈り》19、《プロイセン王子の死に寄せる哀歌》20は、音楽院のピアノ科入学試験で、とりわけ副科―このクラスは、奇妙な習慣に従って鍵盤学習クラスと呼ばれている21―の入試でしばしば演奏されている。我々が、この作品一覧の中で忘れずに挙げおかねばならないのは、とりわけ、ト短調と変ホ調の協奏曲22、ピアノとヴァイオリンの為のヘ調の2重奏23である。この作品は、著名なピアニスト、アラベッラ・ゴッダード24、つまり大音楽批評家の妻となったデイヴィソン婦人によってロンドンで大変な評判を得た。更に、ヘ短調の四重奏25、変ホ調の五重奏26、弦楽四重奏(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)27。これらは威厳を保ち決して廃れることのない作品である。
この選択を裏付けるのは、これら全ての作品の引き締まった様式、卓越した仕上がりである。よく手にはまる輝かしい走句は、完全にこのピアノ向けに書かれたものだ。旋律のフレーズは高貴さ、精彩、熱気を備え、音楽的霊感は、しばしば劇的な域にまで高められている。コジェルフ28、ジャダン29、エルマン30、ゲリネック31、プレイエル のピアノ作品でさえ、更に深い忘却の淵に沈んでいる。これとは反対に、デュセックの作品は、部分的には流行が及ぼす影響や時代の作用に耐えるものだが、それは、彼の作品の様式が非常に強い個性をはっきりと示しているからである。彼の音楽的着想が率直かつ高貴であるがゆえに、作品は長くその命脈を保つのである。旋律のフレーズは優美さ、繊細さ、心より出づる生気が際立っている。創意工夫に富み、輝きを放つ走句は多様な形式で書かれている。しっかりと豊かに織り込まれた正確な和声には、はっとさせる効果や、大変な大胆さが見て取れる。
- 厳密には作品番号は77番までが出版された。
- 《二台のピアノのための協奏曲》作品63 (1805-6作曲 ; 1807刊)
- 《ピアノ五重奏》作品41 (1803刊)
- 《ピアノ四重奏》作品56 (1804刊)
- 《3つの室内フーガTrois fugue à la camera》作品64 (1808刊)
- 作品76、ヘ長調(1811刊)。
- フェティスFrançois-Joseph Fétisはベルギーの音楽学者、理論家、作曲家。パリとブリュッセルで教鞭をとり、彼の出版した『音楽家人名辞典』(1866-1868)は今なお19世紀以前の音楽家とその作品を知る上で重要な史料である。マルモンテルの記述はこの辞典にある程度を負っている。
- 「二つのオペラ」はフェティスによって言及されおり、いずれも英語のオペラだったという。内一つは、クローHoward Crawによる主題目録にある音楽劇『The Captive of Spilberg』(1798年11月4日、抜粋上演)か。
- 独奏、合唱、オーケストラのための荘厳ミサ曲、1811年作曲。
- 1786年作曲。
- 《告別Adieu, a favorite duett composed by Mr. Kelly》 (1791頃刊)
- 作品62、変ロ長調 (1807刊)。
- 《グレトリの「我が軽き小舟」に基づくロンドRondo sur l'air Ma barque légère [de la Rosière de Salency] de Grétry》は、遺作のソナタ変ホ長調 (Crawの作品目録番号260)の3楽章。
- 《3つのソナタThree sonatas》作品25-2 イ長調, デュセックの生前、第4楽章が本体から切り離されて別個にこのタイトルで販売されていた。
- 《「アンリ4世万歳の歌」に基づく変奏曲》作品71-5, ハ短調。
- 《賛歌を歌わんChantons l"Hymn》作品6-3。デゼードNiocola Dézèdeのオペラ主題に基づく作品。
- 《ピアノ・ソナタ「パリへの帰還Le retour à Paris」》作品64(1807刊)。
- 《告別, 新作ソナタThe Farewell, A new grand sonata》作品44 (1800刊)。本作はクレメンティ社から出版され、クレメンティ当人に献呈された。
- 《祈りInvocation》ヘ短調, 作品77(1812)。作品番号つきの最後の作品。
- 《プロシア王子ルイ・フェルディナントの死に寄せる調和的哀歌 Elégie harmonique sur la mort du Prince Louis Ferdinand de Prusse》(1806-1807作曲)、ヘ短調。二つの楽章からなる。
- このクラスは本来、声楽科の学生が自分でピアノ伴奏をしながら歌う技術を学ぶために設立されたので「鍵盤学習クラスla classe d"étude du clavier」と呼ばれていた。既に19世紀初期に存在したが、一時廃止され、1822年に復活。その際には、ピアノ科志望の学生が少なからず在籍するようになり、ピアノ専科の準備クラスという性格を帯び始めた。
- 作品49 ト短調。ホ短調の協奏曲は作品1-2, 3, 15, 70のいずれかを指す。
- 《二重奏曲》ヘ長調、作品11。
- ゴッダードArabella Goddard (1836-1922)はイギリスのピアニスト兼作曲家(女性)で、6歳からパリでカルクブレンナーの指導を受け、48年二月革命の際には母国に逃れルシー・アンダーソンとタールベルクに学ぶ。作曲理論は同国の著名なピアニスト兼作曲家A. G. マクファーレンの薫陶を受けた。60年に批評家 J.W. デイヴィソンと結婚。19世紀英国を代表する名手として70年代、アメリカ、オーストラリア、インドなど世界各国を巡った。
- 《ピアノ四重奏》作品56 (1804刊)。調性は実際には変ホ長調。
- 《ピアノ五重奏》作品41 (1799作曲)。調性はこちらがト短調。
- 《弦楽四重奏》 作品60 (1806作曲)。 コジェルフ:Leopold Kozeluch (1747-1818) はデュセックと同じくボヘミア出身の作曲家で当世のヴィーンを代表するチェコの作曲家。チェコの有力な音楽家フランツ・グザヴァー・ドゥシーク(1731-1799, 本章のデュセックとはおそさく別家)の門弟で、1778年にヴィーンを訪れ同時代の著名なピアニスト、作曲家の一人に数えられ、84年までには出版業も始めた。49曲のピアノ独奏ソナタを始め、交響曲11曲、協奏交響曲、弦楽四重奏、ピアノ三重奏、多数の歌曲、オラトリオ、オペラ、バレエ9曲など幅広いジャンルで豊かな作品を残している。
- ジャダンは18世紀から19世紀にかけて活躍した音楽一族姓だが、ここで言及されているのはイアサント・ジャダンHyacinthe Jadin (1776-1800)またはその兄ルイ=エマニュエル・ジャダンLouis-Emmanuel Jadinである。両者はいずれもパリ音楽院でピアノを教えた。特に夭折のイアサントは厳格な様式のピアノ独奏曲、協奏曲、弦楽四重奏を多数残している。
- エルマンJean-David Hermann (ca 1760-1846)はドイツ出身のピアニスト兼作曲家。1785年にパリで演奏し名声を確立、マリー・アントワネットのピアノ教師に指名された。87年にパリに到着したシュタイベルトのライバルと目された。シュタイベルトとの共作ソナタ《ラ・コケット》(第一楽章がエルマン作、終楽章がシュタイベルト作)はこの二人の名手によって宮廷で演奏されたが、軍配はシュタイベルトに上がった。
- ゲリネックJosef Gelinek (1758-1825)はチェコ出身のピアニスト兼作曲家。当代きってのヴィルトゥオーゾで、フィリプ・キンスキー侯爵の庇護を受けて1789年頃にヴィーンに移住、対位法の大家アルブレヒツベルガー の元で作曲の腕に磨きをかけ、同侯爵家のピアノ教師、司祭として15年を過ごし、その後ハイドンが仕えたエステルハージー家の当主ニコラウス二世の司祭として余生を送った。ヴィーンではハイドン、モーツァルトの知己で、若きベートーヴェンとも親しく交わった。
- プレイエルIgnace Joseph Pleyel (1757-1831)はオーストリア出身の作曲家、出版者、楽器製造者。若くしてハイドンの弟子となり、20代で作曲家として名をなした。イタリア、イギリスに滞在したのち、1795年からパリに定住、出版社を設立、パリでハイドン、ベートーヴェン、フンメルらドイツの大家作品シリーズを刊行。1805年には楽器製造にも着手する。彼の父のピアノ会社を引き継いだ長男カミーユは、シュタイベルトとデュセックの弟子であり、ピアノの名手モーク嬢(「プレイエル婦人」の項目参照 )の夫となった。
ヘ短調, 第1楽章
ヘ短調, 第2楽章
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。