ヤン・ラディスラフ・デュセック 第1回
古典的な作品への導入として、 ソナチネ・アルバムの洗礼を受けたピアノ学習者ならば、デュセック(チェコ語の発音ではドゥシーク)の名前は「ソナチネ17番」の作者として記憶の片隅に残っているかもしれません。クレメンティやチェルニーと同じように、初級者向けの作品だけで名前が残っているデュセックも、今日ではベートーヴェンやシューベルトの先駆者として評価が進んでいます。(今日「デュセック」と記載されることが多いですが、訳本文ではフランス人である著者の発音デュセックに忠実に「デュセック」と表記しています)。
忍耐強い統計学者兼伝記作家にとって、偉大な家系に関する興味深い検討がなされることになるだろう―いにしえのボヘミア王国、ハンガリーによって生み出された種族、祝福されし土地、選ばれし国、肥沃な大地、分けても特別に豊穣な音楽性を湛える大地について述べるとするならば。物事の根源へとさかのぼること、つまり一見したところ自然現象のように自発的で持続的なこの芸術動向の起源について考えることは興味深いことであろう。綺羅星のごとく輝くかの個性の集団が形成された原因は、まさに天に、国籍に、大地に、環境の及ぼす影響に求めるべきであり、その全てはヴィルトゥオジティ、作曲、ないし教育の領域に消え難い痕跡を残したのだ。
デュセックは、チェコとスラブのこうした一大芸術勢力の祖先のひとりである。彼は1761年 2月9日1、傑出した音楽家、オルガニストでボヘミアのチャースラフにある祭式者会教会の楽長の息子としてこの街で生まれた。5歳より、父から音楽言語の初歩を学んだ。9歳のとき、彼の早熟ぶりは既に、オルガンで演奏された興味深い前奏と創意溢れる伴奏によって示された。我らの親愛なる故ルフェビュール・ヴェリー2は、彼もまた神童で、まだ年端もいかない時分に驚くべき手法で即興をしていた。デュセックと同様、ルフェビュール=ヴェリーもまた熟練オルガニストの息子で、8歳の時には神経麻痺に倒れた父の代わりができるほど上達していた。
デュセックは、ソプラノ児童合唱団の一員としてイフラヴァの修道院に入り、そこで抜け目無い指導のもと、文学、音楽の学習が行われた。生徒の素質と知能を極めて公正に評価する神父たちは、彼に多くの愛情を注いだ。デュセックはクッテンベルク3で人格を完成の域に高め、プラハで哲学講義を行い、この街でバカロレア論文4の審査を受けるという輝かしい光栄に浴した。芸術と文学の学習という好ましい組み合わせは、ドイツの教育課程に含まれており、これを適用することで、ドイツ人には優越がもたらされ―これに異論を挟むことはできないだろう―同時に大いなる芸術の真なる感情のいっそう完璧な下地となった。これはフランスではほとんど理解されていないとは言わないまでも、見倣われていないに等しい実例である。
論文を書き上げた後、デュセックはボヘミアを離れ、ベルギーとオランダで彼の庇護者であるメンネル侯爵に付き従った。メヘラン、アムステルダム、ハーグでは二年間を過ごした。彼はオルガニストとしていくつもの主要な教会に雇われたが、既に得ていたピアニスト、大ヴィルトゥオーソとしての名声によって、彼は名誉なことに、州長官の子女の教師に選任された。1783年、デュセックはハンブルクを訪れ、著名にして謙虚な大芸術家エマヌエル・バッハ5に助言を求めた。この人物は現代的なソナタの創始者で、その新しい型を作り、それまで用いられてきた和声の定型、形式主義的な手法を断ち切った最初の人である6。この手法はオペラでは用いられなくなっていた音楽システムだったが、器楽においてはあたかも永久不滅のものになろうとしているかに見えた。この天才的な人物の激励と指導を受けて、デュセックはついに独自の力強さを備えた感情を手に入れ、ベルリンに赴いた。この地で彼の作曲家、ヴィルトゥオーゾの二つながらの才能は広く賞賛を巻き起こした。
- 今日彼の誕生日は2月12日と見なされている。
- パリで活躍したオルガニスト、ピアニスト、作曲家(1817-1869)。著者マルモンテルがここでこの音楽家を連想したのは、ルフェビュール=ヴェリーが彼の親しい旧友だったからである。パリ音楽院では同じピアノ科でヅィメルマンの門下生だった。本著第27章がこの作曲家に当てられている。
- 今日クトナー・ホラ(チェコ語)の呼称で知られるチェコ中央部の都市。
- 現在のフランスにおけるバカロレア制度(大学入学資格試験)とは異なり、ここでは教会法の大学で3年間学んだのち、大学の定める形式の学位公開審査を受けるシステムを指す。
- カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714 - 1788)。事典項目を参照。
- 彼は、それまで主流だった組曲の伝統から急-緩-急の3楽章形式のソナタを確立し、大胆な和声、転調で激しい情念の表現を全面に押し出す「多感様式」の代表的音楽家として知られる。19世紀のフランスでも、彼のソナタとピアノ教程『クラヴィア演奏の正しい技法についての試論』は教育の現場で途絶えることなく受け継がれていた。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。