フレデリック・カルクブレンナー 最終回 芸術家の奇妙な虚栄心
モリエールの戯曲「町人貴族」は一庶民の主人公が貴族になろうとして数々の失敗を踏む喜劇ですが、フランス、イギリス貴族や王族とも対等に付き合うその姿は後に「町人貴族」と揶揄されることもありました。その背景には、1830年代、工場や銀行を経営する資本家たちが大きな富を手にし、裕福な市民層を形成しましたことが挙げられます。プレイエルと手を組んでピアノ製造会社を経営したカルクブレンナーも、裕福な上流ブルジョワであり、精神的には貴族を装うための努力を惜しみませんでした。
既に述べたが、カルクブレンナーには他のどの芸術家よりも己を愛するという欠点があった。ここではいくつもの証拠の中からその一つを示す。パリに立ち寄ったモシェレス1は、友人であるカルクブレンナーの家で夕食をとった。彼はロンドンで、カルクブレンナーのことをよく知っていた。食事のあとで音楽会が催された。家の主は初見でまだ手稿譜の状態にある連弾ソナタを弾いてみないかと申し出た。モシェレスは、礼儀正しい人間として、また偉大な芸術家として、主の手稿譜を巧みに初見で演奏した。そこに居合わせた友人たちは、その時、この著名な来訪者にソロでの演奏し、彼の有名な練習曲の幾つかを弾いて欲しいと願い出た。しかし、これは家の主人の考えの埒外にあった。彼は遠慮を理由にして大急ぎでピアノの蓋を閉じ、初見演奏から生じたどうしようもなく踏ん切りのつかない印象の中に聴衆を置き去りにして満足した。
もっとも、カルクブレンナーは上品で非常に礼儀正しい人物ではあった。が、更にある欠点を持っていた。それは、彼が自分を大貴族だと思っていることだった。イギリスやフランスの貴族と交際する習慣は、彼にとっては第二の天性のようなものだった。彼は、全く驚くべき親しみを込めて、その習慣について話すのだった。彼の言うことを信じるなら、彼はド・ラ・ロシュフーコー家2の人々の親友で、ド・カラマン男爵3と日常的に食事を共にする客人だった。某閣下は、自身の狩りをはじめるために、彼を待った。そしてド・ボヴォー大公4は、彼に昼食を共にしたいと願い出るのだった。「しかしだね、客の一人が私の気に入らなかったから、私の食卓用具一式をテーブルに置かせないで頂きたいとお知らせしたのだよ。」あるいは、こう言うのだった。「ねえ、あなたはご存知でしょう、ルイ=フィリップ5が、よければ貴族の肩書きを受けないかと、私に尋ねさせたことを。 私は、お礼を申し上げ、お断りするのが賢明だと思ったのだ。私は政治家ではないしね、是非とも完全な自立を保っていたいのだよ。国王は、その遺憾の念を私に証言させたのだ。」
この無分別な虚栄心は、カルクブレンナーにあっては全く一本調子なものとなっていた。それは人生のあらゆる些細な行動にも読み取られる。我々は、紛れもない非常に特別な事実として、次のことを語ることができる。カルクブレンナーは著名人と何名かの高名な芸術家を招いた豪奢な夕食会を開いていた。最初の料理が出で、君主の食卓に上るような一匹の立派な魚が来客の賞賛の的となると、カルクブレンナーはこれを話のタネに次のような小話を語って聞かせた。「皆様方、この魚には全くお金がかかっておりません、これがどういうことかと申しますと・・・私は今朝、極上の一匹を選ぶために自分で卸売市場に行って来たのです。こちらの魚が、私の賓客に相応しかろうと思いまして、値切ることもせず、業者のご婦人に名刺をお渡ししたのです。私の名前を見るや、高度な芸術的感性を持たれていると見えたその庶民女性は、動揺して私に尋ねたのです。私が、パリ中に名を馳せている著名な芸術家、あの大カルクブレンナー先生ではないですか、と。私は、そう、私がその人です、と答えました。そうしましたら、たっての願いで、賞賛の印としてこの魚の贈り物を受け取って欲しいと請われたのです。そしてここは譲歩してこちらの魚を受け取るほかなく、これを私は喜んで貴方がたにご提供しているのでございます」
カルクブレンナーの顔つきははっきりとしていた。目鼻立ちは、整ってはいるが、ややくっきりとしていた。穏やかだが漠とした目には、厚い眉が影を落としていた。大きく微笑みをたたえた口は、ある種の冷笑的な作り笑いを見せていた。カルクブレンナーは平均以上の身長で、歩きぶりは規則的で、物腰は素っ気なくもったいぶっていた。彼は過剰な丁寧さを装い、これを上流社会の習慣の反映だと信じていた。この振る舞いによって、彼は遠くからでも、外交官の容姿に見えた。親しげな発想は、彼にとっては大きな喜びであった。
更に、カルクブレンナーは、何につけてもこの上ない学者気取りに徹していた。上流階級の礼儀作法博士の彼は、いかにして彼らが食卓につくべきか、社交会で如何に振舞うかを旧友に、教えていた。彼は大芸術家であるよりはるかに熟練した医師であると思っていた。だから、彼ショパンに対してさえも、手導器と自身のメソッドの訓練課題を推奨するのをためらわなかった。これらのおかしな癖のことは忘れてしまおう。傑出した作曲家、例外的なヴィルトゥオーゾ、一線を画すピアノ教師、著名な一派の長、そして偉大な製造会社の設立者の見事な美点を称えるために。
- モシェレスIgnaz Moscheles(1794-1870) : チェコ出身、主にロンドンで活躍したピアニスト兼作曲家。
- 10-11世紀から続くフランス有数の名家。フランス美術院の長ソステーヌ・ド・ラ・ロシュフーコーは子爵の位を持つ貴族で、カルクブレンナーと同年生まれだった。
- ド・カラマン男爵Louis Charles Victor de Riquet de Caraman (1762-1839) : フランスの官吏。王政復古時代、ルイ18世治世下で代議士、在仏オーストリア大使等を務めた。
- フランスの名家ボヴォーの一員。大公(prince)を名乗った人物は歴代7名存在するが、カルクブレンナーど同時代を生きたのはナポレオン一世の侍従を務めたマルク=エティエンヌ=ガブリエル・ドゥ・ボヴォー=クラオンMarc Étienne Gabriel de Beauvau-Craon (1773-1849)。
- 七月王政期(1830~1848)のフランス国王。1830年の革命でブルボン王朝を駆逐し、オルレアン家のルイ=フィリップ(1773~1850)が王座についた。ステファン・ヘラーによれば、カルクブレンナーはルイ=フィリップ家の娘(恐らく王女マリー=ドルレアン)にレッスンを付けていた。カルクレンナーがピアノ独奏用に編曲したベートーヴェン交響曲全集はこの国王に献呈されている。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。