アメデ・ド・メロー 最終回:気高きルーアン市民の闘病と最期
今日でマルモンテル著『著名なピアニストたち』より第5章「アメデ・メロー」は最終回です。ピアニスト、作曲家、文筆家として、いずれにおいても第一級の水準を保ったメローはルーアン市のアカデミー会長に迎えられました。肺の病に冒された晩年、71歳の時にメローは遂に息絶えました。芸術家としてのみならず、人格者としてもルーアンの芸術家たちの尊敬を集めたメローの死は市民に深い哀しみをもたらしました。
私は今でもアメデ・ド・メローの好感に満ちたあの表情が目に浮かぶ。力強さと善良さが輝く顔、エネルギッシュで愛情に溢れた容貌、くっきりと浮かび上がる輪郭、揺るぎなく見通しのよい眼差はそれでいて好意に満ち、それはまさにあの雄々しき精神の反映そのものだった。1874年4月25日、多くの友人と生徒の愛情を残し、彼の熱烈に愛したある女性に深い愛着を抱いたままメローは亡くなった。三年来、肺に生じていたアンギーナによって彼の頑強な身体組織は蝕まれたが、彼はこの手ごわい病の進行を近親者に知られないように務めた。善良で愛想がよく微笑みの絶えないド・メローは正に堅忍不抜の精神で病の苦痛に起因する幾度とない危機に耐え、周囲の人々には安心させる言葉をかけた。
メローが編纂した『クラヴサン奏者たち』の第4集の表紙。第4集はクープランの作品が収められている。装飾音は17、18世紀は特殊な記号で表記されたが、メローは実用的観点を考慮して記号を全て音符に置き変えている。
彼の死はルーアン市に深い哀しみをもたらした。人々に愛された芸術家は、このノルマンディー地方の都市にとって養子のような存在だった。ルーアンのアカデミーは彼を会長の座に据え、彼に対し正式に、上流市民の資格を与えたのだった。ルーアンの芸術家たちは一人残らず博愛的精神の下に団結し、ド・メローのために大芸術家に対して行うような葬儀を営んだ。思いを共にする人が自身の墓の周囲に集まってくれる人々はなんと幸せだろう、そしてその死が高揚する人々は!
メローの墓のほとりで読まれた弔辞はこのヴィルトルオーゾ、傑出した作曲家、卓越した文筆家という3つの掛け替えのない栄光に贈られた輝かしい賛辞である。だがも我々は重ねて述べておきたい。まさにメローの名を高からしめたこれらの美点に加えて、メローは更に実直な心、揺らぎない良心、彼の芸術に対する変わらぬ愛、まったく繊細な感情を備えた雄々しき精神を持っていたのだ。ゆえに彼の名は、永遠の命がこの先長く模範となり、高尚な教訓となっている大家の名に加わるに相応しいものなのだ。
次回からは数回にわたり「ノクターン」というジャンルを確立したジョン・フィールドの波乱万丈な人生をお送りします。どうぞお楽しみに。
(訳・注釈:上田泰史)
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。