19世紀ピアニスト列伝

プレイエル夫人 最終回

2013/07/05

マリー・プレイエル(1811-1875)

ショパンと一歳違いのピアニスト、マダム・プレイエルの小伝最終回。即興的に加えられる装飾の技法は、特にフンメルやショパンの作品の演奏において他の追随を許さないほど素晴らしいものだったと言います。《ノクターン》作品9をショパンが献呈したとき、当然、ポーランドの青年はプレイエル婦人の装飾スタイルを念頭においていたことでしょう。

プレイエル婦人は作曲家ではなかったが、非常に創意に溢れる装飾家で、旋律のフレーズに細やかで繊細な輪郭での優美なアラベスクを縫い取った。例として、フンメルのアンダンテ(作品18)が挙げられる。これは[定期刊行紙]『メネストレル』の編集者[=ウジェール社]が刊行したもので、この著名なヴィルトルオーゾが付加した変奏魅力的な変奏に基づいている。この種の装飾において、プレイエル婦人はずっとショパンに先んじている。彼女はショパン作品の演奏において他の追随を許さなかった。彼女の軽やかでしなやかな指は、いわばそれら自身が熟慮の労を少しも見せることなく、あの空気のように軽く生き生きとした、うっすらと透き通るような足取りの走句を即興していた。こうした走句はショパンがノクターンやバラード、即興曲の中で用いるのを好んだものだ。

専門的な伝記作家たちは、過度の親切心からか、殆ど全員が出生証明書と彼女の没年月日、没地について口をつぐんでいる。フェティスは上品な儀礼的精神からプレイエル婦人がパリで出生したと述べるに留めている。だがこの慎重な遠慮の態度を模倣する理由はもはやどこにもない。ゆえに、述べよう。マリー=フェリシテ・モークは1811年7月4日、パリに生まれ1875年3月30日にサン=ジョステン=ノード(ブリュッセル)で亡くなった。不毛な人生の波に疲れ、成功に無感動になり、身近な人々を愛し、生徒たちに熱愛されたこの大芸術家は、穏やかに瞑想し最後の休息を味わいながら、我らの元を去った。

プレイエル婦人は音楽界にくっきりとした足跡を残した。それは大いなる閃光の輝きであるが、彼女のヴィルトルオーゾの技法に触れる記述はなにも残さなかった。その秘密を保存しうるのは、伝統のみである。我々はゆえに、かの美しく魅力的な個性を描いたこの慎ましやかなパステル画がこの豊かな才能の中にまとめ上げられた美点の全体を蘇らせる一助となれば幸いである。この偉大なヴィルトルオーゾの足跡を辿ろうという称賛すべき野心を抱く芸術家たちは、彼女の幸福がそこで打ち沈んだ恐るべき幾多の暗礁を回避することになるだろうが、しかし、彼女の演奏の理想的な完全性を再び見出そうと努力するだろう。彼女がそうであったように、あらゆるジャンル、あらゆる様式の中に真実の表現を絶えず追い求めながら。

(訳・注釈:上田泰史)


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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