アンリ・エルツ 第3回:教師、ピアノ製造者、ホール経営者としてのアンリ・エルツ
今日は19世紀後半のピアノ教授マルモンテルが手がけたピアニスト兼作曲家列伝『著名なピアニストたち』から第4章「アンリ・エルツ」の翻訳第3回です。エルツはパリ音楽院で女子のクラスを担当していたこともあり、大変多くの女性の弟子を抱えていました。紳士的な愛想の良さの中に皮肉を隠すエルツのレッスンの指導効果はきっと心理的に大きな功を奏していたはずです。エルツの弟子の中では、音楽院で彼に学んだロジェ=ミクロス(1860~1950)が録音を残しています。文章末の参考音源情報をご覧ください。
アンリ・エルツは、北米、南米、メキシコ、ペルー、チリ、ブラジル、カリフォルニア、ハバナ、ジャマイカ、ニューヨーク、ニューオーリンズ、ボルティモア、フィラデルフィア、ヴェラクルスの中を何度も、あらゆる方向に駆け回った。彼は400回以上のコンサートを開き、なお聴衆の熱狂を涸らすことなく、至る所で喝采を浴び、別れを惜しまれた。我々フランス人は彼の数々の比類ない成功を誇らしく思ってしかるべきである。というのも、心、精神、才能の繊細で気高い本性という点から見て、アンリ・エルツほどにフランス的な芸術家は存在しないのだから。大旅行から戻ったアンリ・エルツが日中を教育に費やし、夜遅くまで作曲に捧げる時期は近づいていた。彼の助言を請う生徒たちは数多くいたが、何度かのレッスンに与(あづか)るにはずっと前から予約しておく必要があった。ヴィルトゥオーゾになる宿命1を信じる若い娘 たちにとって、この名高い教授の贔屓の生徒と呼ばれることがどれほどの喜びだったろうか!それでも、彼女たちが師のレッスンを受けに行くのには、ある種の恐れや不安がないわけではなかった。これはアンリ・エルツがその厳しさや過度の要求ゆえに恐れられたのではなく、この教授が洗練された礼儀、きちんとした身なりの下に、生徒のちょっとした欠点に対する鋭く皮肉っぽい冷やかしを隠していたからである。ほんのわずかだけ傷を与えたり、皮肉まじりのからかったりするこの行為は、決して標的を逃しはしなかった。それは耐えがたい傷を与えることはないにせよ、少なくとも長い間ひりひりするようなやけどを負わせた。
エルツの門下で教育を受けた女性ピアニストはかなりの数にのぼり、輝かしい一団を成している。芸術にとっては残念なことに、ヴィルトゥオジティに身を捧げた大部分の若い女性たちは、ほどなく華のない家庭的義務のためにこれを断念している2。ヤエル婦人、モンティニ婦人、スザルヴァディ婦人、マサール婦人、プレイエル婦人、ジェゼフィーヌ・マルタン婦人3は偉大な個性であり、輝かしい例外的才能であるが、この社会一般の決まり事を追認している。
何年か前に、アンリ・エルツは教授職に疲れて引退し、パリ音楽院で受け持っていたクラスを辞めた。彼はこの学校で彼の最初の成功、輝かしい想い出、かけがえのない伝統の証を残したが、それを受け継ぐことができたのはマサール婦人だった 。引退してからというもの、この傑出した芸術家は活動と確かな経験を彼の重要なピアノ製造業の経営指揮に捧げた。創業が40年以上前に遡るこの商社は、様々な運命に出くわした。創業したころの不幸と言えば、このようなことが会った。この会社はフランスの楽器製造業の中で徐々に第一線の地位を獲得していった。だが、アンリ・エルツが様々な要因から生じた失敗を償うために、1845年にフランスを離れたのだった。結局、巧みな経営指揮と腕利きの工員、利発な技師、そしてとりわけ楽器製造の様々な改善に対する綿密で絶えざる配慮のおかげで、アンリ・エルツ社は今やこの輝かしい芸術的産業の頂点の座を占めている。アンリ・エルツの工房から出荷されたピアノは、大変有名な商社が製造したフランスと外国の楽器と比較しても見劣りしない。それらは、エラール社やプレイエル社のピアノと同様に、万国博覧会で次々にさまざまな等級の賞を獲得している。
この偉大な芸術家、著名な楽器製造者としての功績に、コンサート・ホール4―それは優雅で音楽聴取に知的に適合された模範的なホールである―を建てる際、彼が主導権を発揮したことを付け加えておこう 。この傑出した芸術家、高く評価された工場の長は、しかるべくしてレジョン・ドヌール二等勲章に叙せられた。
- アンリ・エルツはパリ音楽院で女子クラスの教授だった。19世紀、パリ音楽院は女子と男子のクラスは棟が異なっていたため男女が顔を合わせるのは声楽のアンサンブル以外には殆ど機会がなかった。
- 2社会における女性の権利は今日以上に大きく制限されており、女性が作曲家として活躍することは当時の社会通念上、ふさわしいことではなかった。音楽院の作曲クラスは女性には開かれていなかったし、当然、学士院が主催するローマ賞コンクールも男性にのみ開かれていた。教授職に関しても、給料は男性教授の方が良い傾向がはっきりと見て取られる。こうした状況下にあって、19世紀のパリ音楽院教授では後にこの翻訳シリーズに登場するモンジェルーならびにファランク女史が作曲家としても活躍。
- 3これらの女性音楽家のうちファランク婦人、プレイエル婦人、モンジェルー婦人はこのシリーズで後に登場するので、ここでは説明を割愛する。マリー=クリスティーヌ・ヤエル婦人(1846-1925)はサン=サーンスをしてリスト作品の演奏を心得ているのは世界にただひとり、彼女だけだ、と言わしめたヴィルトゥオーゾ。夫アルフレードはチェルニーとモシェレスの弟子でやはりピアニスト兼作曲家。マサール婦人はエルツの後任として1874年から87年まで音楽院で教えた。フランス国立図書館の蔵書を検索する限り、作曲家としては曲を残していないようである。生没年不詳のジョゼフィーヌ・マルタンはピアノ科男子クラスの教授ヅィメルマン教授の個人的な弟子で、自ら作曲も行い、ヴィルトゥオーゾとして活躍。男性の側からも高い評価を得ていた。30点余りの作品がある。
- 4サル・エルツと呼ばれたコンサート・ホール。当初1838年にピアノ工房に併設されたホールだった。ベルリオーズは自作オラトリオ《キリストの幼年時代》を1856年にここで上演した。58年に改築とともに、全668席の豪華なホールに生まれ変わった。1885年に閉館。
アンリ・エルツの弟子で録音を残しているロジェ=ミクロスの演奏。ショパンのワルツでは明瞭に発音される一つ一つの音と巧みにテンポを緩めたり引き締めたりしながらコントロールされるフレージングの妙に思わず聞き入ってしまいます。
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金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。