19世紀ピアニスト列伝

アンリ・エルツ 第1回:神童、ウィーンからパリへ

2013/02/19
神童、ウィーンからパリへ
若き日のアンリ・エルツ(1832年)
若き日のアンリ・エルツ(1832年)

本日はマルモンテルの『著名なピアニストたち』の第4章「アンリ・エルツ」の第一回。エルツはアルファベットではHerzと書きますが、「H」を発音しないフランスで生涯の殆どを過ごしたのでここでは「エルツ」と表記します。1803年生まれのエルツはピアニスト兼作曲家、楽器製造者、ピアノ教授として1888年に85歳の誕生日を目前に没するまで、長きに渡りパリのピアノ界に君臨しました。後にエルツの音楽に辛辣な批評を加えるようになるシューマンさえ、初期にエルツのピアノ協奏曲をモデルとして協奏曲の作曲を試みています。ドイツ・ロマン主義を中心に語られる一般的な19世紀音楽史の枠組みではしばしばエルツは名技的だが軽薄な流行作曲家の代表例としてみなされるきらいをなしとはしません。しかし、マルモンテルのエルツに対する評価は大変高く公正な判断に基づいています。このような記述を読むと、エルツに関しては20世紀以降に広まった先入観を排して作品をいろいろ調べてみようという気にさせられます。

この人物こそ、最も好意的で、偉大で、利益をもたらす人々の中に数えられる芸術家である。彼は古参者でありながら常に巨匠であり続けている。優美さとエスプリの点ですぐれてフランス的な彼の作品が収めた途方もない成功のおかげで、音楽の趣味は広まり、フランス・オペラのすぐれたモチーフは人々の間に知れ渡ったのだ。傑出したヴィルトゥオーゾにして作曲家であるアンリ・エルツは、この言葉の洗練された意味において、将来なおも普及者たり続けていることだろう。虚しくも、いくらかの現代のピアニストたちは過去に対して不公正な態度をとり―彼らの最大の過ちは、エルツとその弟子たちに言わせれば自分たちを知らなかったことにある―エルツたちを流行遅れの取るに足らぬ、表面的な価値しか持たない作曲家呼ばわりしている。アンリ・エルツとその雄々しき兄、ジャックは、それでもなお一線を画した二つの個性であり、雄弁術においては二人の教師であり、一流の二人の作曲家であり、この二人を、今日の群れをなす編曲屋たちと比較することは断じて許されない。

アンリ・エルツは、フェティス1によると、1806年1月6日にウィーン(オーストリア)で生まれた。我々の言及するこの日付の信憑性についてはさて置くとしよう。驚くべき音楽の才能に恵まれたアンリ・エルツは、その素質をごく幼い時分から発揮した。この早熟な人物は、芸術一家に囲まれて、恵まれた環境の中で急速に育まれた。モーツァルトと同じように、エルツもまた8歳でいくつかのソナタを書き、演奏会で喝采を浴びた。大音楽家ではないにせよ、センスのよい音楽家であった彼の父はしかし、パリに行ってそこに居を構え、息子に高度な技術教育を受けさせ、その輝かしい才能を厳格なメソッドに即して発達させようというよき着想を得た。10歳でパリ音楽院に入学を許可されたアンリ・エルツは、すぐさまプラデール2のクラスで輝かしい一等賞を獲得した。プラデールは、非常に厳しい先生だったにもかかわらず、自身の驚嘆すべき生徒に強い好意と父のように寛大な好意を示した。この若きヴィルトゥオーゾは、既にウィーンにおいてオルガニストのヒュンテン3の下でざっと学んだ和声と対位法の勉強を、ドゥルラン4レイハ5の指導のもと継続した。

我々は、ここでこの著名なピアニストの伝記を書き、一歩一歩この大変勤勉で充実した彼の生涯を辿る必要はない。我々はこの興味深い専門的研究を書くことを別の誰かに委ねることにする。成功を得ることには貪欲だが、あまりに練習をおろそかにすることの多い若い芸術家たちのための偉大な模範的人物に関するこの研究を6。アンリ・エルツは、まさに日々の絶えざる練習によって、一流の巨匠の列にのぼりつめたのだった。この意志は、彼の諸作品の第一級の霊感のなかで主要な役割を果たしている。彼の作品の性格と形式は極めて独特で多様な性格と形式で書かれているが、いずれも優雅さと気品の刻印を備えている。こうしたものは殆どのピアニストが同じようには持ち合わせていない。

いかなるヴィルトゥオーゾ兼作曲家も、あれほど若くして、あれほど正当な人気を獲得した者はない。それなのに、我々は声を大にして言おう、この芸術家は、自身の音楽的信念を犠牲にしたり、様式を変えてまで悪趣味に迎合したり、流行に乗ったり、成功の花道の奥へとどんどん踏み入ることは決してなかった。アンリ・エルツは、才能の成熟期に様式を少しだけ変えたり、枠組みを変えたりすることはあったにせよ、作曲家の諸原則にはいつも忠実で、彼がお気に入りの模範としたモシェレスフィールドフンメルに従っていた。

  1. フランソワ=ジョゼフ・フェティス(1784~1871):ベルギーの作曲家、著述家、理論家、音楽史家。19世紀を代表する音楽界の頭脳フェティスは1860年~1865年にかけて8巻に亘る『音楽家総列伝』第二版を出版。現在でも19世紀の人物を検索する主要な事典となっている。
  2. 2011年に出版されたロール・シュナッペール教授の著書『アンリ・エルツ, ピアノの重鎮:19世紀のフランスにおける音楽人生(1815~1870)』
    2011年に出版されたロール・シュナッペール教授の著書『アンリ・エルツ, ピアノの重鎮:19世紀のフランスにおける音楽人生(1815~1870)』
  3. ルイ・プラデール(1782~1843):ピアニスト兼作曲家、パリ音楽院ピアノ科教授。1800年から1828年の間、教鞭を取った。自身もパリ音楽院出身だが、彼のいたころの音楽院はちょうどクラヴサンからピアノへの移行期に位置しており、彼が学んだのはクラヴサンだった。プラデール門下から輩出された生徒では後にパリ音楽院教授となるフェリックス・ル・クーペ(1811~1887)が有名。
  4. フランツ・ヒュンテン(1793~1878):ドイツ出身のピアニスト件作曲家。1820年にパリに移りパリ音楽院に入学、プラデールにピアノを、レイハに対位法・フーガを師事。1826年に結婚して以後、48年までパリに滞在した(但し35~39年は生地コブレンツで過ごす)。
  5. ヴィクトール=シャルル=ポール・ドゥルラン(1780~1864): パリ音楽院の和声・伴奏(スコア・リーディング)教授、作曲家。ドゥルランのクラスではアルカンマルモンテルプリューダンラヴィーナを始めとする19世紀フランスの代表的なピアニスト兼作曲家たちが学んだ。
  6. アントニン・レイハ(1770~1836): プラハ生まれ作曲家、理論家、パリ音楽院教授。ソナタ形式を最初に図式化したことでも知られる。著書に『高等作曲教程』、『旋律教程』(1814)、『オペラ作曲家の技法』。理論家としての関心から19世紀の早い段階でピアノ音楽でも異名同音や複調、無調といった実験的な書法を導入している。
  7. アンリ・エルツに関する専門的な学術書が出版されたのはつい一昨年、2011年のことである。高等社会科学研究所のロール・シュナッペール教授の著した『アンリ・エルツ, ピアノの重鎮:19世紀のフランスにおける音楽人生(1815~1870)』(Edition EHESS, 2011)がそれである。フランスの学会で教授と知己を得た筆者は日本でもいずれは翻訳出版をしたいという希望を伝えたところ、大いに歓迎とのこと。ぜひ検討したい。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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