前奏曲集第2巻より第5曲「ヒースの茂る荒れ地」
今回の曲目
前奏曲集第2巻より第5曲「ヒースの茂る荒れ地」 3m04s/YouTube
第4曲「妖精はよい踊り子」では、ドビュッシーのイギリス趣味、ケルト趣味について触れましたが、この作品も同様です。この作品を表面的に聴くと、とても綺麗で可憐な作品だと思います。しかし、決して明るくはないのです。それを知るには、やはり、日本人の感覚とドビュッシーが好んだイギリスやスコットランドの趣味の擦り合わせが必要かもしれません。
ヒースという花は、日本ではエリカという薄紫色のとても小さい花をたくさんつける低木と考えれば良いでしょう。これは園芸店でもおなじみの花です。インターネットなどでも簡単に見ることができます。その花自体はとても可憐で可愛らしいものです。しかし、このヒースの茂る場所は温暖なところではありません。一般的に想定されるところは、スコットランドの北西部のハイランド地方かもしれません。とても冷涼で厳しい自然があり、ほとんどが荒れ地や岩山、谷、岸壁などです。日本なら、北海道や北アルプスなどの岩山がイメージとしては近いのでしょうか。最近では、宮崎駿監督のアニメ、「ハウルの動く城」で出てくる荒れ地、湖、山や谷がとても近いものとして印象的でした。そういえば、このアニメはイギリスの児童文学作家、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの「魔法使いハウルと火の悪魔」が原作ですから当然かもしれません。そこに可憐なヒースが群生して花を咲かせるさまは、そのコントラストがとても印象的なものだと思います。さて、ハイランド地方といえば、スコッチウィスキーのハイランドモルトがすぐに思い浮かびます。あのとても強烈な薫りはピート香というものですが、ピートは、ヒースが枯れて堆積した泥炭です。ちょっと話が脱線していますが、脱線ついでに、話を続けます。このハイランド地方よりももっと北の端にアイレイ(アイラとも言います)地方があって、ここでもウィスキーは特産です。ここのモルトはアイレイモルトといいますが、ハイランドモルトよりもより強烈な風味です。理由としては、堆積しているピートに海藻が混じっていることなどがあるのでしょう。つまり、北に行くほど気候が厳しくなっていくとともに、風味も刺激的になっていきます。これがあの可憐なヒースの泥炭が原因であると思うととても夢が広がります。
いずれにしても、これらのイメージについて考えることはとても楽しいことですが、実際の演奏には、ある程度冷静な目で作品を観る必要があると思います。イメージがはっきりしていることが理由の一つでしょうか、前奏曲集第2巻の中では珍しく調性がはっきりとしています。語法としては、前奏曲集第1巻第8番「亜麻色の髪の乙女」や、初期のベルガマスク組曲の前奏曲などがとても近いものとして考えられます。
以上のことがらをふまえたとき、この作品は可憐な優しさのあることは確かですが、底抜けに明るく楽しいという作品ではないということがわかります。この作品がフラット系の変イ長調で書かれていることは当然のことです。これをイ長調で弾くと、とても違ったイメージになってしまいます。
亜麻色の髪の乙女はとてもポピュラーですが、それに似たこの作品もとても親しみやすいものです。
演奏上の問題について
冒頭は、前奏曲集第1巻第8番「亜麻色の髪の乙女」と同じように始まります。3小節の間、まったく和音の伴奏がありません。第5小節から逆算して眺めてみると変イ長調であることがわかります。そして、第4小節はドミナント、第5小節はトニックです。変位長調ということがわかったところでもう一度最初の3小節を見てみると、面白いことがたくさんわかります。まず、主音のasが避けられていることです。もちろん、このソプラノ課題に変イ長調の和声をつけることはそれほど困難ではありません。しかし、音列としてみると、とても興味深い特性があります。まず、構成音は5つだけであることです。これは5音階と考えれば異国趣味を醸し出す代表的な語法です。さらに2小節目の最初のcを除けば、es→b、c→g、b→fという4度の下降音型が多用されていることです。この響きは3度音程と異なり、寂しさなどが感じられます。さらに、音の分布は、第2小節後半では主音のasを中心としてジグザクに広がっていくようになっています。そして第3小節で広がったままcで停止します。これがさらに寂しさを感じさせます。ここまでの、いわば問いかけの答えが4、5小節のカデンツとなっています。ここの部分は、ソプラノの動機とテノールの対位法的かけあい、そしてバスのb→es→asの代表的なラインがあります。冒頭の単旋律と好対照な、このような古典的ともいえる表現は、ベルガマスク組曲の第1曲の前奏曲によく見られたものです。とてもバランスよく表現しなければいけません。
6~7小節は、それまで下降音型のモチーフが中心だったのに対し、その反行形である上行音型が目立ちます。また、バスのラインとソプラノのラインが反進行しています。6小節では3和音が並進行したり、IV→Iの進行が見られたりするなど、とても柔らかいニュアンスが必要です。また、7~8小節は変イ長調のカデンツが認識できます。ソプラノとバスの反進行とあわせ、とても広がった感覚でmfまでの緩やかなクレッシェンドが効果的です。当然、バスの、b→es→asのラインは大切です。
8~10小節は大きく見ればIとIVの和音の交替なので、緊張感を漂わせないようにしたいところです。また、9小節のsubito Pはとても大切に表現するべきでしょう。
11~14小節までは大きなカデンツですからこれまでの楽節を閉じる意味でも丁寧な表現が必要です。特に、13~14小節では、上段のdes→cとともに、V→Iの進行に特徴的なes→asのラインをバスに感じて演奏すると効果的です。これは、ソプラノが、通常ならes→g→asと進行するところが、導音を回避してes→f→asとなっていることに起因します。
14~16小節もI→IV→Iの進行が中心です。ここの右手の細かいパッセージはとてもデリケートに弾かなければいけません。指使いの提案としては、f b esの3音からなる4度を重ねた和音を1,2,4の指で、下降音型のas→es→asは5,3,1の指で、そして、15小節の最初の右手のc fは1,2でとるとポジションが安定して弾きやすいと思います。ペダルでレガートを作ることで、15小節の右手の最初のf bの連結は2の指を連続して使用できます。16~17小節はここも大切にカデンツを表現したいところです。バスのf b esのライン、テノールのas gのラインなどに注意しましょう。
19~22小節は推移部です。19~20小節は右手が、4度重ねの和音が並進行して下降してきます。その反進行としてバスのc des es(des)のラインは響きのバランスをとるために大切です。指示がある通り、「柔らかく、軽く」表現したいところです。21~22小節はバスにDes-durのVのオルゲルプンクトが鳴り続けます。これをしっかりと残したいところですが、中段の和音をすべて左手でとるとほぼ不可能です。わたしは、21小節の3拍目のdes、22小節1拍目のc es、2拍目のb des、3拍目のbを右でとり、ペダルでつなげてバスのasを残します。なお、21小節の2、3拍目は借用和音なので、一瞬曇った響きが必要です。
23小節では、やはりドビュッシー特有の語法である、長いドミナントのあとにはトニックが来ないということが当てはまっています。23小節では意外にもB-durに転調します。ここからは中間部分でほんの少しテンポがあがります。ここでもI→IV→Iの進行が特徴的です。27~33小節は、大きなカデンツです。27、28小節はIIの和音、29~30小節はドッペルドミナント、31~32小節はドミナントです。この間のsubitoを伴う細かな強弱の変化をテンポを変えずにデリケートに表現しなければいけません。また、29小節のバスのc、31小節のバスのf、33小節のバスのbが大きなカデンツのバスラインになっていますから、これを上声部との響きのバランスをとりながら表現するべきです。33~37小節は同じような繰り返しに見えますが、34、36小節では、中段のgesがとても重要な音です。これは借用のIV和音の重要な構成音なので、隣り合うfとの響きの揺らぎを大切に表現しなければいけません。37小節では徐々にゆっくりしますが、これは、最後の短い8分音符に転調したAs-durのドミナントがあることも理由の一つです。
38小節からは再現部です。8小節のテンポと寸分変わらないテンポで表現するべきです。また、8小節と微妙にアーティキュレーションが異なるので違いを表現しましょう。理由は、ドビュッシーが同じ繰り返しを嫌うからです。Mfは43小節の頭までずっと続けるべきです。44小節からはコーダですが、大きく見れば、IV→V→Iという単純な進行になっていますが、中低音域での和音の響きをすべて残しながら上段のメロディーなどを表現しなければいけません。極めて多層的に響くことがとても大切です。44小節終わりから上段で響く冒頭のモチーフは、その演奏者が音を大切にしているかどうかが簡単にわかってしまうところなので、可能な限り音楽的に集中して、しかし、「柔らかく」表現するべきでしょう。特に46~48小節は上段と中段の2重唱です。これをバスのesの響きの上に乗せなければいけません。特に中段では、47小節のfisがとても強い倚音ですから、上段のdim。につられずにはっきりと表現するべきだと思います。また、48小節のsubito piu Pと上段のlegato staccatoはとても大切に表現するべきです。
49小節でトニックに解決します。ここからはあまりテンポをだらだらと間延びさせない方が効果的だと思います。ロマン派までにありがちな、過度なリタルダンドは避けるべきでしょう。
とても愛らしく魅力的な作品ですが、バッハの対位法的な作品などに必要な、多声的な表現ができないと、過度にロマンティックで表面的な演奏になりかねません。そういう意味ではなかなか難しい作品だといえるのではないでしょうか。
1962年東京都に生まれる。早稲田大学理工学部数学科卒。本職は中・高等学校の数学科教諭。ピティナピアノコンペティション全国決勝大会で、ソロ部門特級は2003?4年ともに入選、コンチェルト部門上級で2004年に奨励賞、グランミューズ部門A1カテゴリーで2004年に第1位受賞。2005年における同コンペティション ソロ部門特級でグランプリ(金賞)および聴衆賞、ミキモト賞、王子賞、日フィル賞、文部科学大臣賞、読売新聞社賞、審査員基金海外派遣費用補助を受賞。
第1回ザイラー国際コンクール・イン・ジャパン・フリー部門第2位。第1回北本ピアノコンクールH部門第1位、合わせて全部門での最優秀賞を受賞。2004年10月にリスト国際コンクールマスタークラスにてレスリー・ハワード氏の公開レッスンを受講、オランダ大使館にてリスト国際コンクール主催の演奏会に出演。2005年1月、円光寺雅彦指揮東京フィルハーモニー交響楽団と共演。2005年5月、テレビ朝日「題名のない音楽会21」に出演し、現田茂夫指揮東京交響楽団と共演。
これまでにピアノを角聖子、神野明、北川暁子、K.H.ケンマーリンク、森知英、田部京子の各氏に師事。また音楽理論を中村初穂氏に師事。
著書に『挑戦するピアニスト 独学の流儀』(春秋社刊 2009)