前奏曲集第1巻より第7曲「西風のみたもの」
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前奏曲集第1巻より第7曲「西風のみたもの」 3m57s/2.84MB
ドビュッシーのすべてのピアノ作品の中で、最も力強く、ダイナミックな作品です。トレモロやアルペジオなどは、往年のリストの作品を彷彿とさせます。もちろん、リストと比べれば、その作曲技法は大きく異なりますが、この作品だけは、サロンではなく、大ホールで弾かれるようなものだと思います。
我々日本人が「西風」から受けるイメージは、ドビュッシーのそれとは必ずしも一致しないでしょう。一般に、大西洋からの偏西風にのった強い海風だと思われ、そこからイメージされるのは、荒れ狂う海に呑み込まれる舟や人、ギリシャ神話に例えれば、「ヘロとレアンドロス」の舞台となっている海のような世界ではないでしょうか。そういう意味では、この作品は、この話と強い関連のあるリストの希有な傑作、「バラード第2番」を彷彿とさせます。ぼくはあまり文学的な解釈を好みませんが、この作品からはそういったものを容易に想像できる曲想だと思います。ドビュッシーには珍しく、ダイナミックな迫力を弾き手に要求する作品だと思います。
演奏上の問題について
1~6小節まではアルペジオが主体です。1~4小節では特に抑揚などを表す指示がありませんが、荒れ狂う夜の海の不気味な波に時折、鬼火のような鈍く蒼白い光があるような、そういうイメージはあって良いでしょう。従って、自然に上行するときはクレッシェンド、下降するときはディミヌエンドすることになると思います。ただし、バスは常にfisが2分音符で保続されています。従って、常にこのfisの響きの上にアルペジオの響きがあるべきです。ここの部分は、g-moll のV7の第1転回形です。3小節から、上声部にes, ges, asというdes-mollのV7の第2転回形が複調的に響きます。互いに遠い調なのでこの上声部は普通に弾いても目立ちますが、下声部のアルペジオとは異なった音色で弾かれるべきでしょう。
さて、これらのアルペジオは、単独では長調、短調を識別できません。しかし、G-durと判断しないのは、3小節で上声部に出てくるesがg-mollの第6音で、これを含めればここの響きはV9の第1転回形と判断できます。同様に、このg-mollのアルペジオのaをbbと読みかえれば、これはdes-mollの第6音で、これを含めれば上声部の響きはV9と判断できます。結局、1,2小節では低音部のアルペジオなので不気味ではありますが、G-durかg-mollかを判断できない状態で、ここに3,4小節で微かにdes-mollの響きがg-mollに混じり、これらが5,6小節で同格な2つの和音の交替として明白になるわけです。そして、これが6小節までの大きなクレッシェンドを形作っているといえるでしょう。これらの2つの調は古典和声的にはとても遠い関係にありますが、ストラヴィンスキーやバルトークなどと同様に、近代和声では非常に近い関係にある調です。複調として減5度関係にある調を用いることはとても多いのです。しかし、ここでの用い方は、ぼくは複調だとは思いません。むしろ、晩年の傑作「12の練習曲」で多く見られる、「半ずれ」だと思っています。たとえば、ドミナントとトニックは根音の進行が4度(または5度)関係にありますが、この一方が半音ずれることで減5度の関係になるからです。つまり、この部分は、その前ぶれだと考えることができるでしょう。
7~9小節は、不気味に荒れ狂う海に、まるでギリシャ神話のセイレーンの歌声を思わせるような不思議なメロディーが現れます。これは、まさしくドビュッシー的な響き、すなわち、並進行の3和音で、しかもバスの完全5度のトレモロも並進行します。まるで、ギリシャ神話に出てくるセイレーンの羽ばたく翼の風に、荒れ狂う波が同調しているかのようです。しかし、この不思議な感じは、分析するとなかなか興味深いものがあります。同じ響きが前奏曲集第2巻の第2曲「枯葉」の25~30小節の上段にあります。この部分は、異名同音を無視すれば、A, Es, Ges, Cをそれぞれ根音とする4つの長3和音の並進行です。これを並び替えてA, C, Es, Ges とすると、これらの根音は、短3度の関係にあります。そして、これらの長3和音の構成音をすべてcから順に並べるとc, cis, es,e, ges, g, a, b, (c)となりますが、これはメシアンの移調の限られた旋法第2番(MTLII)にあたります。7~9小節の和音は、順番を並べ替えれば、es,fis, aをそれぞれ根音とする長3和音で、これら根音は短3度の関係にあります。これを先ほどと同様にcから順に並べると、MTLIIのうち、cだけが欠落したものになります。つまり、この部分の響きは、MTLIIの萌芽と考えることができます。いずれにしても、この不気味な感じを、指示のある微妙な強弱をうまく使って表現したいところです。
10~14小節は、これまでと同様にバスにずっとfisのオルゲルプンクトがあるのですが、これがトリルとなって響きを保続しています。一方右手は長2度の重ね合わさったオクターブでメロディーの断片を演奏します。この右手は、hの欠落した全音階となっているので、浮遊した感じが漂います。sfzのある部分から、subitoでPまたはPPになるところは、一閃の雷でしょうか。立ち上がりの早い鋭いフォルテから、うまくペダルを使って瞬時にPまたはPPにして細い、「嘆くように、そして遠くから響くように」演奏される右手のメロディー、これはセイレーンの歌声のようです。惑わされずにいられたのはギリシャの知将オデュッセウスだけでした。そういう知識も役には立つでしょう。11小節の最後の16分音符から12小節への跳躍は間をあけずに弾きたいところです。特に手のポジションが手前から奥に移ることを意識すると弾きやすいと想います。
15~16小節は、バスがfis, g, ais, cisの構成音になっています。gは前のトリルの名残と考えれば、バスはFis-durのI和音のオルゲルプンクトで、その上の声部は、異名同音を無視すれば長3和音の半音階の並進行になっています。これが更に音を厚くして17,18小節で繰り返されます。2拍ごとにsubitoでピアニシモに落としながら、クレッシェンドすることと、バスの32分音符は、右手の1の指で弾かれるaとは重ならずに響くこと、そして、最初からずっとバスのfisがオルゲルプンクトであることに注意して演奏します。特に細かいクレッシェンドは半音階の並進行和音だけにつけるのではなく、バスの32分音符にもつけるべきです。
19~20小節は全音階の響きで、これまでの、細かいクレッシェンドののちsubitoで音量をおとす、それがだんだんルーズになってきて、15~20小節の1つの大きなクレッシェンドを演出しています。また、フォルティシモは23小節なので、そこに行く前に大きくなりすぎないようにしたいところです。徐々に音が厚くなっていきますから、同じ音量で弾いているつもりでも、自然にクレッシェンドになります。オーケストラの楽器が1つずつ増えていくことによるクレッシェンドをイメージしたいですね。
21~22小節は、相変わらずバスはfisのオルゲルプンクトで、メロディーは22小節の3拍目まで全音階、つまり、b→ges→as→b→c→as→b→fis→dとなっています。和音の響きは概ねV7の響きが並進行していますが、21小節の4拍目、22小節のI拍目ウラ、2拍目は増和音になっています。これを他と同様にV7で弾くと、より響きが複雑になっていることがわかります。演奏としては、その響きの違いが出るようによく聴くべきでしょう。ここはフォルティシモではないので、クリアな響きで重くなく弾くように心がけたいところです。また、ここはb,d, fisの増和音の響きが根底にあって、fisはオルゲルプンクト、bはオクターブパッセージで装飾的に、dは23小節からの部分でトレモロの一部の構成音になっています。23~30小節はその響きが支配的です。増3和音は全音階とニュアンスが共通していますから、26小節にあるように「不安で苦しそうに」というニュアンスは表現しやすいと思います。細かい強弱記号は指示通りに守ると単調さを防げます。
31~32小節はH-durのV13の響きが支配的で、前後の部分に対してシャープ系の明るい響きになります。この部分が曲全体で唯一明るさをもつ部分です。しかし、根音はeでH-durのV13の第7音ですから、安定感はありません。32小節の4拍目はG-durのV9で、その後34小節まで、半音階で上行に並進行します。並進行を基準に考えれば、15小節の右手の最初のaや33小節の右手の最初のgと左手の最初のfは、それぞれgisis, fisis, eisが妥当だと思われますが、そう書いてないのは、ダブルシャープなどがかえって読みにくいという単純な理由だと思っていますが、33小節のI拍目は、右手の和音を増和音として考えていた可能性も否定できず、これは判断がつきません。
35小節からは、10小節3拍目からの主題が左手の中声部に現れます。また、35小節の1拍目は、まだ前の小節からのV9の並進行としてE-durのV9ととらえられますが、その構成音fisがないことで、2,3拍目の左手のテーマの構成音をすべて含めて全音階和音となります。ここは、曲の冒頭から続いていたfisのオルゲルプンクトの5度上であるhがオルゲルプンクトとなります。属調的と考えて良いでしょう。バスは十分響かせるためにフォルティシモの指示ですが、他の部分はフォルテです。38小節のI拍目に向かうためにも強く弾きすぎず、よく響かせるべきでしょう。38小節はその前までの全音階和音のg, aがそれぞれgis, aisに変位して、dis-mollの付加音のあるIV的な和音に収束します。39~42小節も同じような繰り返しですが、41小節に変化があるので注意が必要です。また、38,42小節の3,4拍目の上声部はさりげなくラインを響かせて細かな強弱の指示を守りたいところです。この部分が43小節から縮節として用いられ、また、dis-mollのIV的な和音がdis-mollの付加音のあるトニックに解決する形になっています。43小節はオクターブずつ上行して3回繰り返され、46小節では長3和音が半音階で上行に並進行します。47小節ではcisに収束しそうですが、長2度高いdisにいくことで、更に盛り上がった感じが得られます。また、43小節から47小節までクレッシェンドしながらだんだん速くするように指示がありますが、何しろ、47小節の到達点はフォルティシモではなくフォルテです。1小節ごとにオクターブずつ上行すること、46小節は45小節までより音が厚いことなどを考えると、普通に弾いてもその効果は十分得られます。それを計算しないと、最大のピークは52小節ですから音が大きくなりすぎて叫び声のようになってしまいます。
46小節の左手の指使いですが、1つの提案としては、3, 2, 2, 3, 2, 2, 3,2, 3, 2, 3, 2があります。最初の3を除いて、ほぼ黒鍵が3、白鍵が2になるというメリットもありますし、後半はヘミオラ的な盛り上がりを期待できます。
47~50小節は、オクターブのトレモロの伴奏にのった属7の和音のついたメロディーが現れます。これは21~23小節の再現ですが、いつものように、同じようには再現されていません。まったく同じようにV7が並進行しているように思いますが、47小節左の4,5番目、49小節左の5,6番目(ここは右手も伴いますが)だけが第2転回形、他は第3転回形になっています。21~23小節も完全な並進行ではなかったので、このあたりをしっかりとチェックしておかないとミスタッチを誘発します。この部分のオクターブトレモロは、速いので結構弾きにくいという人もいるかもしれません。ここは、強く弾こうという意識は必要ないでしょう。また、重い音も禁物です。意識の中にこれらをもっていれば余計な力が入らずに演奏できると思います。49小節の最初から2拍目までは跳躍が激しく、アラルガンドをかけたくなるところですが、そのまま50~52小節でリズムの拡大がおこり、アラルガンド効果があることを考えれば、インテンポでいくべきでしょう。手元にデュラン・コスタラ版がないのでなんともわかりませんが、いくつかある楽譜のうち、音楽の友社(山崎孝校訂)だけが、49小節の右の最初の、1オクターブ上に奏する記号が最初の2個の32分音符だけでなく、4個の32分音符にかかっています。スラーが2個ずつにわかれていること、低音のdisのオクターブまで一気に落ちていく感じから考えると単なるミスプリだと思います。51,52小節は全音階和音で締めくくられます。
54小節からはfis調で曲が終わるためにバスにオルゲルプンクトが現れます。しかし、よく見ると、トリルはfis, gのものとfis, gisのものが交替されます。また、それを強調するようにドビュッシーは指示しています。54~56小節は冒頭の1~4小節に対応します。55,56小節のdis, gisなどをそれぞれes, asなどに読みかえれば冒頭と同じ、g-mollとdes-mollの交替または混在と読むことができますが、ここでは、違っています。これをどう読むかについては、いろいろな考え方ができるでしょう。音に現れるかどうかは別にして、1~4小節のdes-mollが55、56小節ではcis-mollになっています。単純に前者はフラット系、後者はシャープ系ですから、後者の方をより明るめで活動的に演奏するということも1つの考え方でしょう。ただ、解釈はいろいろありうると思います。
59~61小節では、7小節と減5度関係にあるC-durに転調して同様に再現しています。そして、62小節で7小節と同じものが縮節されて再現されてコーダになります。63小節を見ると、最初はG-durのV9の響きですが、3拍目の第2音のgisがでることで全音階和音に変化します。この交替と運動速度が速まり縮節がかかって69小節の全音階和音に収束します。ここは10小節からの部分の断片ですが、68小節までの全音階和音が半音高くなっています。そして3拍目のバスのcisが4度上行して70小節のfisに向かいます。他の部分はまったくドミナントモーションではありませんが、この進行だけが古典和声のV→Iを感じさせます。
最後は6音付加のFis-durのトニックで終わります。
67,68小節はリズムを正確に演奏することは難しいです。特に、2,4拍目の右手のeと左手のfisが同時に演奏されてはいけません。ここは、左手の音型の指使いを2, 1, 2, 1, 3を基本にすれば、2,4拍目の右手の3連符に左手がつられないで演奏しやすいと思います。
前述の通り、この作品は、是非、リストのバラード2番と抱き合わせで勉強することをお勧めします。
1962年東京都に生まれる。早稲田大学理工学部数学科卒。本職は中・高等学校の数学科教諭。ピティナピアノコンペティション全国決勝大会で、ソロ部門特級は2003?4年ともに入選、コンチェルト部門上級で2004年に奨励賞、グランミューズ部門A1カテゴリーで2004年に第1位受賞。2005年における同コンペティション ソロ部門特級でグランプリ(金賞)および聴衆賞、ミキモト賞、王子賞、日フィル賞、文部科学大臣賞、読売新聞社賞、審査員基金海外派遣費用補助を受賞。
第1回ザイラー国際コンクール・イン・ジャパン・フリー部門第2位。第1回北本ピアノコンクールH部門第1位、合わせて全部門での最優秀賞を受賞。2004年10月にリスト国際コンクールマスタークラスにてレスリー・ハワード氏の公開レッスンを受講、オランダ大使館にてリスト国際コンクール主催の演奏会に出演。2005年1月、円光寺雅彦指揮東京フィルハーモニー交響楽団と共演。2005年5月、テレビ朝日「題名のない音楽会21」に出演し、現田茂夫指揮東京交響楽団と共演。
これまでにピアノを角聖子、神野明、北川暁子、K.H.ケンマーリンク、森知英、田部京子の各氏に師事。また音楽理論を中村初穂氏に師事。
著書に『挑戦するピアニスト 独学の流儀』(春秋社刊 2009)