前奏曲集第1巻より第5曲「アナカプリの丘」
今回の曲目
前奏曲集第1巻より第5曲「アナカプリの丘」 3m26s
この作品はドビュッシーが南イタリアのナポリ地方を旅行したときの思い出がインスピレーションになっているといわれています。どこまでも明るい空と海が、ドビュッシーとしては珍しいロ長調という極めて明るいシャープ系の調性で表現されています。しかし、それでも、この作品は、やはり、イタリア的な開放感に満ちあふれた明るさではないと思います。最後を除けば、どこか、光がくすんでいるように感じてしまうのはぼくだけでしょうか。曲は、ちょっと聴くと、とてもわかりやすい響きと民謡のような親しみやすいメロディーに溢れているので、恐らく、前奏曲第1巻の中で、一番人気の高い作品ではないかと思います。
第4曲、第6曲と比べるととてもコントラストの強い作品です。
演奏上の問題について
この作品は、元気いっぱいで演奏されることが多いのですが、ぼくは必ずしもそう演奏することが良いことだとは思いません。例えば、フォルティッシモは43小節の一瞬、81~84小節、94小節以降しかありません。何しろ、曲全体を通じて、軽やかに弾かなければいけません。ロシア的な野太い響きはここで用いると曲が台無しになるでしょう。
5音階はさまざまな形がありますが、一番わかりやすいのは、トニックに第2音と第6音を付け加えたもの、つまり、ハ長調ならc, d, e, g, aです。ドビュッシーはこの作品でこの付加和音を5音階の魅力と重ね合わせて用いています。大きく見れば、実は、1~10小節はhのオルゲルプンクトの上に響きがあり、10小節ではじめて、付加音はありますが、ロ長調のトニックに解決するという形です。1~8小節は、IVの和音に2,6音が付加されたもの、9小節は、IVからIに向かう経過和音としてとらえられるでしょう。和声的には変化に乏しいのですが、1,2小節や5,6小節の中音域のゆったりした柔らかい響きと、3,4小節の高音域での軽やかなパッセージの交替などがあり、決して単調に聞こえません。しかも、4、7,8、9小節の最高音aisはロ長調の導音ですが、主音のhに解決せずに、不連続な感じを与えていることが更に単調さを感じさせない理由となっています。この音は、導音とはとらえないので、むしろ、キラッとした硬質な響きで弾くと良いでしょう。
3小節のパッセージですが、ピアニシモで「軽く、遠くの方で響く」ように演奏することは非常に難しいです。あまり和音の取り方を変えることはお勧めしませんが、もしそうできないのなら、例えば、3小節2拍目の右手の1の指でとる4分音符eを左手の1でとると、ポジションの変化が最小限で済むので、演奏しやすくなる場合があります。8小節の和音の構成音のcis, eが、9小節の和音の構成音のcisis, eisに揺れ、それがさらに10小節の和音の構成音のdis, fisに収束する感じはとても大切な響きだと思います。9小節はドミナントではありませんが、10小節のトニックに向かう感じが欲しいところです。また、9小節の最初まではピアノですから、くれぐれも早くクレッシェンドをかけないようにしたいところです。
10~17小節はずっとIの和音ですが、11小節の2拍目から第1転回形のトレモロを伴奏音型に使うことにより、ちょっと安定感のない、浮遊した感じが出ています。ドビュッシーは第1転回形に変わったことを12小節の最初のdisで強調しています。粒をそろえて「軽く」演奏することは結構難しいものです。14小節からの主題は順次進行で16小節の途中までいきます。しかし、ここでもドビュッシーは普通に書いていません。まず、テヌート記号のついているcis,aは、いずれもIの和音の第2音、第7音です。しかも、今述べたとおり、根音のhはないので、更に浮遊感が強調されます。メロディーラインで面白いのは、16小節の後半から20小節まで縮節がかかっていますが、それまでの順次進行が跳躍進行になっていることでより一層縮節の効果が出ているということです。18~20小節途中までは、II→III7→IV7→III→II→...という並進行のゆれがあり、 これに応じて細かい強弱が指定してあります。すべての構成音があるわけではありませんが、並行5度的な揺れを感じたいところです。
21小節からは右手にfisのトレモロが出てきますが、これは、大きく見れば、32小節までの長いドミナント和音の根音で、これが33小節のトニック和音の根音である、バスのhに解決する形になっています。しかも、半音階進行での経過音として使われている27小節のaisを除けば、解決するまで全く導音を用いていません。これはドビュッシーがロマンティックになりすぎないようにして欲しいという理由の一つだと思います。21~24小節は当然25小節でトニックに解決することを期待させますが、ドビュッシーは長いドミナントを用いたときにはトニックに解決しないという語法をよく用いていることに注意しましょう。例えば、「喜びの島」の220小節など、その代表的なものの1つです。
24~29小節では、突如、フラット系のト短調のV9が挿入されています。明確に音色を変えるところです。28小節の右の上行音型は30小節の予見ですから、ニュアンスとしては鋭さを持っていいと思いますが、音量としてはピアノを守るべきでしょう。29小節の最後のdis は25小節のesの異名同音的な用い方で30~33小節のロ長調のカデンツを導きますが、I(第2転回形)→V13→I6となっていて、しかも導音を用いていないので普通のカデンツには感じられないかもしれません。先ほども述べたとおり導音がないので、和音のゆれを感じさせる部分は明瞭にニュアンスを表現するべきです。それは、31小節のdis→32小節のe→33小節のdis...といったライン、つまり、ドミナントの7音とトニックの3音の限定進行音の揺れを表現したいところです。もちろん、バスがメロディーですが、すでにオクターブで書かれていますから、あまり強く演奏すると今申し上げた和音の揺れが聞こえずにメロディーだけの単調な音楽になってしまいます。39~41小節はバスにあるロ長調のI音hのオルゲルプンクトの響きの上にドミナントが響き、ソプラノのオクターブのメロディーと、左手の8分音符のfisから始まる順次上行進行の2声が対位法的にからんでいますから、特に左手の8分音符は明瞭に響く必要があります。42、43小節では右手の16分音符にさりげなく冒頭のモチーフh, fis, cis, e, gis, hが用いられています。39~41小節のバスのhは42小節のfisのオクターブに進み、43小節のI拍目で、付加音gisはありますが、トニック和音に解決しています。ただし、これはバスがfisのままで第2転回形ですから、まだ完全に終止した感じを得ていません。43小節の2拍目の強調されたhが一応の基本形Iのバスと考えられますが、これは44小節2拍目のバスのfisを経て45小節のバスのhに収束し、ここで初めて安定したIの和音に収束したと考えるのが良さそうです。46小節で一瞬IV度上のV7が挿入されますが、ロ長調のI、V音のオルゲルプンクトの上にドミナントとトニックが交替で現れています。従って、この響きの変化をつかさどるラインには意識が必要でしょう。すなわち、右手ですが、43小節のdis、44小節のe、45、46小節のdis、47、48小節のeのラインです。また、IV度上のV7の固有音である46小節のaも倚音として47小節のaisへ向かう響きのラインが欲しいところです。47小節の2拍目のaisは、48小節のI拍目まで響き、2拍目のオクターブ下のaisに進みますから、そう聞こえるように響きを調整したいところです。ドビュッシーは細かい強弱を書き、そう演奏するように示唆しています。
49~65小節は意外と困難な部分です。多声体で書かれているので、アルト部分にある息の長いメロディーだけの音楽にならず、これがほんの少し他の声部より浮かび上がる程度で、他の声部も明確にラインが見えるように表現されるべきです。ここは8分の6拍子と4分の3拍子の複合拍子になっていますから、これをどちらにも聞こえるように演奏することが大切です。バスと右手のオクターブのfisがほぼ継続的にオルゲルプンクトになっていて、バスの方のfisは4分の3拍子を演出したり、53小節のようにシンコペーションを表現したり、結構主張しています。右手にはテヌートが書いてありますが、強く弾くというものではなく、あくまでもオルゲルプンクトを表現するためのものだと考えるべきでしょう。また、バスはI、IV、Vなどの主要和音の根音としてのラインを作っていますが、これは初歩的なバス課題のような進行でドビュッシーにはとても珍しいところです。そのなかでも51小節のhisのように49小節の装飾として経過的に響く部分はさりげなく主張したいです。49~52小節にかけて書いてある小さな強弱記号は、アルトにあるメロディーにつけられていると考えられますが、実はそれだけではなく、18~19小節のバスのラインcis→dis→e→dis→cis→dis→e→disと同様に、これが拡大されて、fis→gis→ais→gis→fis→gis→a→ais→gis(aは経過音)として呼吸しているように表現するためにもついていると考えるべきです。53小節でたくさんの付加音のあるトニックに解決しますが、54小節では擬終止的にIIIの和音に変化します。これは同時に55小節のドミナントに向かうD2和音的なニュアンスももっています。55~62小節はテノールにメロディーがありますが、55,56小節は単音で、57小節はオクターブでcis→dis→e→dis→cis→ときて、58小節はロ長調の第3音disに向かいます。これが62小節ではロ長調の第1音hに向かいます。58小節のdisは右手の1の指でfisと同じ指で弾きますが、うまくポジションや力の入れ方を考えてdisが一番響くようにしたいところです。62小節ではそれが左手のhになりますから、このあたりを工夫したいところです。63、65小節では、右手に冒頭のモチーフが予見されます。また、和音はV11ですが、導音が半音下がってaになっています。教会旋法的ですから、そのニュアンスを大切にしたいところです。
66小節では、65小節の半音下がった導音aとeがそれぞれ更に半音下がってgisとdisに向かいます。gis-mollのI和音に向かった感じです。ここから、IとIVの交替が左手の5度の並進行によって表現され、右手は冒頭のモチーフが繰り返されます。その結果、68小節では付加音のあるトニックの響きの中で第2主題が高らかに歌われますが、ここでも、cresc. moltoの結果はフォルティシモではありませんから響かせる程度で力強さは控えるべきでしょう。14小節からの部分と同じ方法でdim.されてsubitoフォルテで73小節に到達します。71~72小節は、IVの借用和音とIの和音の交替で揺れを表していますから、左手のeis→fis→eisのラインは大切に表現したいところです。73~77小節の最初まではH-durのIV7和音と考えて、77小節では少しH-durのIの和音が感じられ、78~81小節は長いドミナントから、82~84小節でカデンツが現れますが、ここでも83小節ではバスは第5音のfisなので、第2転回形としてまだ落ち着いた響きにはなりません。ここの部分はさまざまな線が対位法的に用いられていますが、同時に和声の揺れも表現したいところです。85小節では次に今度こそトニックに向かうと思わせておいて、やはりはぐらかしてIV度上のV和音(ただし、7音が半音下がって教会旋法的になっています)を93小節まで続け、94小節でやっとトニックに収束して曲を閉じます。86小節からの部分は断片がどんどん細かくなって縮節をお越し、音域もどんどん上がっていきますから、音量に頼らなくても十分盛り上がります。93小節までにフォルティシモを使わないようにして、94,95小節での強音を汚い音にしないようにしましょう。可能な限り明るい、高い音で演奏するべきです。
全体として、正確なリズムとテンポ、対位法的な線の表現、そして和声の表現、これらをバランスよく表現しなければいけないので、人気のある作品ですが、音楽的な表現をするのは結構難しいと思います。
1962年東京都に生まれる。早稲田大学理工学部数学科卒。本職は中・高等学校の数学科教諭。ピティナピアノコンペティション全国決勝大会で、ソロ部門特級は2003?4年ともに入選、コンチェルト部門上級で2004年に奨励賞、グランミューズ部門A1カテゴリーで2004年に第1位受賞。2005年における同コンペティション ソロ部門特級でグランプリ(金賞)および聴衆賞、ミキモト賞、王子賞、日フィル賞、文部科学大臣賞、読売新聞社賞、審査員基金海外派遣費用補助を受賞。
第1回ザイラー国際コンクール・イン・ジャパン・フリー部門第2位。第1回北本ピアノコンクールH部門第1位、合わせて全部門での最優秀賞を受賞。2004年10月にリスト国際コンクールマスタークラスにてレスリー・ハワード氏の公開レッスンを受講、オランダ大使館にてリスト国際コンクール主催の演奏会に出演。2005年1月、円光寺雅彦指揮東京フィルハーモニー交響楽団と共演。2005年5月、テレビ朝日「題名のない音楽会21」に出演し、現田茂夫指揮東京交響楽団と共演。
これまでにピアノを角聖子、神野明、北川暁子、K.H.ケンマーリンク、森知英、田部京子の各氏に師事。また音楽理論を中村初穂氏に師事。
著書に『挑戦するピアニスト 独学の流儀』(春秋社刊 2009)