42. 「30番」再考 ~ 第16番:ヴァイオリンに特徴的な音型
フランスのピアニスト兼作曲家で、1830年代、当時もっとも高名なピアノ指導者だったカルクブレンナーは31年に出版したピアノ教本の中で、ピアノ学習の段階を7つのカテゴリーに分け、その最終段階として次のような練習を勧めています。
ピアノ以外の楽器のためにかかれた作品を演奏することは、新しいピアノ書法を開拓する可能性に結びつきます。なぜなら、ピアノにとって不合理な音型でも、それを弾きこなすことによって新しい技術的な視野が拓けてくるからです。
ピアノでピアノ以外の楽器の特徴的な動きを模倣することによって、ピアノの演奏技法に新たな地平が拓かれた例は少なくありません。もっとも代表的な人物には、パガニーニのヴァイオリンの技巧をピアノ上で手に入れようとしたF.リストがいます。彼は、1839年に出版した《パガニーニに基づく超絶技巧練習曲》で、悪魔的とも言われたパガニーニの演奏技巧を、ピアノを通して「翻訳」し、かつてない練習曲集を生み出そうとしました。シューマンも若かりし日、リストに先駆けてパガニーニのカプリースに基づく練習曲集を二冊出版しています。つまり、当時、カルクブレンナーを初めとしたピアノ作曲家たちは、ピアノ上でヴァイオリンの音型を弾き、ワンステップ先のピアノ表現の可能性を探っていたのです。
次の譜例1は、ニコロ・パガニーニ(1782-1840)の《24のカプリース》作品1(1820)の第9番の一節です。
N. パガニーニ《24のカプリース》 作品1 , 第9番, 第20~29小節
鋭いボウイングで急速に演奏される5音の下降音階が、音域を頻繁に変えながら繰り返されます。この部分をシューマンはどのように書き替えたのでしょうか。次の譜例2の赤いマークを記した部分からが上に掲げた原曲のパッセージに対応する箇所です。
さて、この例を見た上でチェルニーの第16番を改めて見ると、既視感を覚えるでしょう。そう、第16番はちょうどこのヴァイオリンの特徴的な書法に基づいているのです(譜例3)。
1856年に出版されたチェルニーの「30番」は、カルクブレンナー、シューマン、リストたちの試みよりもずっと後になってから書かれたものです。この時差が意味するのは、1830年代当時の新しい試みから生まれたピアノのテクニックが、四半世紀を経て中級者向けの練習曲に導入されスタンダード化されていった、ということです。30年代の野心的動向をじっくりと観察していたチェルニーは、新しい世代の生徒たちが上達したときに出会うであろう先人たちの作品への準備として、そのときに必ず要求される演奏技巧を難しすぎない書法に書き直してくれたのです。こうした配慮にも、近代のピアノの父チェルニーの抜かりない配慮と生徒の上達を願う彼の優しさが感じられはしないでしょうか。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。