40.「30番」再考 ~ 第10番: トッカータの部分練習?
第34回から、様式上の特徴がはっきりと現れている作品をピックアップして、解説してきました。今回は、前回の第7番から少し飛んで第10番 ヘ長調 を取り上げます。メカニスム上の課題は、両手に分割された4音からなるアルペッジョを急速に反復することです。しかも、最上声部にはスラーがかかっており、レガートで旋律線を際立たせることが重視されています。
この音型の特徴は、一つの和音のまとまりを両手に割り振ることによって、急速な音型の反復が容易になるという点にあります。同じ音型の反復は、鍵盤楽器の即興演奏において用いられる典型的な手法です。一定の見通しを持ちながらも、その場で沸き起こるひらめきに基づいて行われる即興演奏においては、反復的なリズム・パターンや音型を繰り出しながら、次に来る和音やパッセージをその場で紡いで行きます。多くの音型の種類を記憶している優れた即興家なら、次々に新しい音型へと移っていくことができますし、本人も予期しないような和音が生まれたりすることもあるでしょう。
さて、即興と関わりの深いジャンルといえば、プレリュード(前奏曲)、トッカータ、ファンタジー(幻想曲)などを挙げることができます。そして、これらの曲種には、今指摘した反復的な音型を多かれ少なかれ見出すことができます。
次の例は、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》第1巻の冒頭の有名な前奏曲です。
アルペッジョを右手と左手に配分しながら反復するこの書法は、チェルニーの10番と共通しています。ただし、一つの和音を構成する音の数は5つ(第1小節目ではc-e-g-c-e)で、チェルニーの1つの和音よりも少し厚くなっています。また、和音が変化する頻度を比べると、チェルニーの場合は1~2拍で和音が変化していきますが、バッハのほうは4拍といっそう緩慢です。
前奏曲で同様の手法が使われる例は19世紀にもあります。有名な例ではショパンの《前奏曲》作品28 第1番がそうです。ショパンの場合は最上声部にたくみに旋律を織り込んでいます。
ところで、前奏曲には、時代を問わずテンポの遅いもの、急速なものなど、速度や書法にかなりの自由度が認められます。一方で、同じ即興的なジャンルでもトッカータは殆どの場合、急速なテンポで書かれることが多いです。「トッカータ」という語は、イタリア語の「触れるtoccare」という動詞から来ています。つまり、リュートやオルガン演奏に際し、調律を確かめたり指鳴らしをするべく「楽器に触れてみる」というニュアンスを持つ言葉なのです。それだけに、トッカータには即興的なニュアンスが強いわけです。
鍵盤楽器のトッカータはオルガン音楽を通して発展してきました。17世紀後半に活躍した北ドイツ楽派のブクステフーデDietrich Buxtehude (1637頃~1707) は鍵盤楽器のためのトッカータというジャンルを様式化した作曲家・オルガニストの一人です。彼はトッカータ(または前奏曲)とフーガを1つのセットとする組み合わせや、即興的な二部分にフガートを挟む組み合わせ、あるいは更に複雑で大規模な組み合わせを用いて「トッカータとフーガ」の伝統の基礎を固めました。バッハの有名ないくつものトッカータとフーガは彼の尊敬したブクステフーデの伝統から来るものです。次の譜例は、バッハの有名な《トッカータとフーガ》ニ短調(BWV 565)の一節です。譜例2小節目から分散和音を両手に割り振って急速に演奏するパッセージはトッカータには頻繁に見られる音型です。
J.S. バッハ《トッカータとフーガ》ニ短調(BWV 565)72~82小節
ここでチェルニーの10番を振り返ってみると、丁度トッカータの1パッセージ取り出したように見えてこないでしょうか。10番の中ほどにはト短調やニ短調からの借用和音も使用され、手が和声を探るように進んでいきます。わずか24小節の曲ですが、チェルニーはその前後にいっそう多様な音型や、フーガ風のセクションを想定し得たはずです。第10番は伝統的なトッカータ風の楽曲を演奏する際に役立つ「部分練習」と言うこともできるでしょう。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。