35.「30番」再考 ~ 第2番 独唱風の旋律
19世紀の器楽曲について「歌唱的な様式」というときには、ベッリーニやドニゼッティに代表されるオペラ・アリアの様式を指すのが普通です。メロディはしばしば弱起で始まり、音と音の間を縫うような装飾音が繊細に施され、フレーズの終わりには即興的な装飾が置かれます。ショパンのノクターンなどにはこうした特徴が顕著です。
チェルニーの第2番は歌唱的な様式に分類することができますが、しかし、それは18世紀的な歌唱的旋律です。ここで「歌唱的」というときには、必ずしも歌われることを前提としません。というのも、器楽曲にも歌うような旋律は用いられますし、逆に、例えばモーツァルトの《魔笛》に登場する夜の女王の有名なアリアのように声楽に器楽的なスタイルが適用されることもあるからです。
ここで「歌唱的」という場合には、音域的に無理なく歌うことができ、また4小節単位で規則的に反復される旋律を思い浮かべてください。旋律モチーフの規則的な反復は、脚韻を伴う歌詞(詩行)のまとまりを聴き手に認識させる上でとても大切です。
では、この観点から第2番ハ長調を見てみましょう。まず、この曲のメロディには1小節おきに反復音を含むメロディが現れ、分散和音による軽快なリズムがこれを伴奏します。
冒頭、奇数小節に見られる音の反復、2小節で一つの楽句を形成するフレーズは、ちょうど一つの詩句を歌っているようです。
ここで少し別の曲を思い出してみましょう。チェルニーの6歳年下で、彼と同じくウィーンで活躍したシューベルトの有名な《野ばら》のメロディも、同様のプランに基づいています。
この10小節はゲーテの詩の最初の5行に対応しています。
- Sah ein Knab ein Röslein stehn,
- 少年は小さなバラが佇んでいるのをみた
- Röslein auf der Heiden,
- 荒地に咲く小さなバラは
- War so jung und morgenschön,
- 瑞々しく朝のように美しかったので
- Lief er schnell, es nah zu sehn,
- 少年は間近に見ようと急ぎ駆け寄って、
- Sah's mit vielen Freuden.
- 喜びいっぱいにバラを見た。
シューベルトは、一行につき2小節のメロディを付け、その都度最初の2または4つのシラブルを反復音で歌わせています(譜例2中の赤線表示)。こうして最初の4行で、音楽的に切りの良い8小節が形作られます。しかし、あと一行文が余ってしまいますので、8小節目でうまく和声的に偽終始して余剰分の2小節を加え一つの自然な楽節全体を作り上げます。
チェルニーの第2番がもし歌曲だったらどうでしょうか。上の要領で詩と旋律の対応関係を考えれば、下の譜例に赤字で書き込んだように旋律と詩行が対応することでしょう。但し、《野ばら》とは違って楽節はちゃんと8小節で割り切れるようになっています。
第8小節以降も同じように詩行との対応関係を想定することができます。
蛇足になりますが、歌曲以外の類似例を一つだけ見ておきましょう。モーツァルトの《フィガロの結婚》の第1幕冒頭にも類似した音型の旋律が登場します。下の譜例はフィガロが部屋の大きさを測りながら第一声を発する箇所です。オーケストラ・パートには、1小節おきの反復音を含む旋律が現れ、続いてチェルニーの第2番同様、第2ヴァイオリンが細かな分散和音を演奏します。両者の主題の対応関係を見てみましょう。譜例4の上段が《フィガロの結婚》、下段がチェルニーの第2番です。
上:W. A.モーツァルト《フィガロの結婚》, 第1幕冒頭
下:C. チェルニー《30のメカニスム練習曲》 作品765 , 第1~6小節
いずれも反復音を含む旋律のリズム、2小節ごとのフレーズ構造、テクスチュアが類似していることがよくわかります。声楽に相応しい音型、喜劇の幕開けとなる軽快で陽気な伴奏の醸し出す雰囲気が、第2番にも感じられはしないでしょうか。チェルニーは当然同じ街で活躍したこの音楽家の作品についてよく知っていたはずですし、実際、チェルニーは編曲や校訂を通して過去のウィーンの作曲家の様式に精通していました。チェルニーの第2番にはウィーン古典派の伝統が息づいているのです。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。