「チェルニー30番」再考

34. 「30番」と様式―第1番はJ.-B. リュリのジーグ?

2015/01/14
第二部「30番」再考
34. 「30番」と様式―第1番はJ.-B. リュリのジーグ?

「ソドレミレドソドレミレド~」小川の流れるようなこのメロディは一度聴くと耳に残りますね。この曲のメカニスム上のポイントははっきりしています。

●メカニスム上の特徴

それは一定のポジションで5本の指を独立させることです。最初の6小節の右手の運指は巧みに組織されています。1~2小節目で5-1-2-3、3~4小節目で5-2-3-4のまとまりが、そして5~6小節で5-3-4-5のまとまりが用いられます。右手の親指に近い方からより独立しにくい小指に近い方へとバランスよく5本の指全体が動くようになっています。

10~12小節からは左手がスタッカートになり、伴奏に軽快さが与えられます。右手の新しい要素は固定された小指です。ある指を固定して他の指の独立した動きを訓練するのはクレメンティやその弟子カルクブレンナーによって既に体系化されていたやり方です。ここで、既にポリフォニー演奏の初歩が準備されているのです。

後半の開始を告げる第17小節では、変化をつけるために前半の音型が鏡に映したように反転します。つまり、「ソドレミレド」という「下がる→上がる→下がる」が「ソレドシドレ」という「上がる→下がる→上がる」という音型に置き換えられるのです。これには練習上の目的と同時に、冒頭の「ソドレミレド」モチーフが反転した形を用いることで統一性を一曲にもたらそうとする知的な配慮を見て取ることができます。

ここでは、固定される右手の指は小指ではなく親指に変わります。これも「反転」の結果です。こうした配慮から、第一番がうまく計算されて作られていることがわかります。

●様式上の特徴

同じ音型を繰り返し用いるのは、もちろん練習曲の特徴なのですが、独立した練習曲がジャンルとして成立する以前、17、18世紀には鍵盤楽器のための前奏曲やトッカータなどでよく見られました。バッハの《平均律クラヴィーア曲集》の前奏曲を思い浮かべて頂ければそのことがよく分かると思います。

次に冒頭を示す《平均律クラヴィーア曲集》第1集の前奏曲の旋律はチェルニーの第1番とよく似ています。赤い鍵括弧は、ハ長調にすれば「ソドレミレド」というチェルニーのモチーフと共通しています。

この点、チェルニーの第1番の様式がバロック時代の前奏曲の様式ということは可能です。しかし、もう少し考えをめぐらせて見ましょう。偶数拍子で急速に動く三連符は17世紀の舞曲組曲の最後に置かれるジーグの特徴です(舞曲組曲の典型的な構成はアルマンド―クーラント―サラバンド―ジーグ)。次に示す例はバッハ《パルティータ》第3番の終曲〈ジーグ〉です。

ところで、第1番のジーグには、1850年代前半に出版された『クラヴサンの大家たち―古い時代のクラヴィーア音楽』1と題する曲集に収められた「リュリ作」と伝えられる組曲のジーグに酷似しています。次の例はその冒頭です。

譜例6

J.-B. リュリ?《アルマンド、サラバンド、ジーグ》より、〈ジーグ〉 第1~4小節

C.チェルニー《根音バスのあらゆる和音についての実践的な知識を得るための練習曲集》作品838, 第1番

ホ短調の「シミファ#ソファミ」「シミファ#ソファミ」の音型は完全にチェルニーの第1番と同じです。更に、ト長調に転じる後半冒頭で、チェルニーになじんだ私たちの耳はまったく同じ旋律を捉えます(リピート記号の直後)。

譜例7

同前、第17~24小節

C.チェルニー《根音バスのあらゆる和音についての実践的な知識を得るための練習曲集》作品838, 第1番

ジャン=バティスト・リュリ(1632~1687)は鍵盤楽器のための作品は書いていないので、なぜこの作品がリュリ作として伝えられているのかは謎です。しかし、50年代に出版されたチェルニーがこの曲に関心をもっていた可能性は十分にあります。この曲集の編者のケーラーLouis Köhler(1820-1886)はピアニスト兼作曲家で、チェルニーのいたウィーンで学習時代を過ごしていますし、批評家としてはF.リストから高く買われていました。
19世紀後半はルネサンス以降の「古い」音楽を普及しようという歴史主義的な風潮が高まった時代でした。鍵盤楽器を含むバッハ作品やスカルラッティの鍵盤楽曲を編纂したチェルニーもまたその運動の推進者でした。「リュリ作」のジーグの由来はともあれ、チェルニーの「1番」には17世紀の舞曲〈ジーグ〉の反映があることをここでは押さえておきましょう。

  1. Louis Köhler (éd.), Les maître du clavecin, Clavier-Musik aus alter Zeit, Branischweig, Henry Litolff's Verlag, n. d. この曲集を出版した? Henry Litolff's Verlag ? はピアニスト兼作曲家のアンリ・リトルフが1851年に、妻のかつての夫ゴットフリート・マイヤーGottfried Meyerの会社を引き継いで立ち上げた出版社で、「277」という楽譜プレート番号はごく初期の出版物であることを示す。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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