29. チェルニー練習曲, その他のタイプ その2
前回は、練習曲でも前奏曲とフーガの体裁をとる特殊な例を見ました。そこでは「エチュード」は練習曲のみならず、厳格な様式の「学習」という意味でも用いられていました。さて今回ご紹介する練習曲の内容は文字通り「練習」を意味するものですが、いくつもの短い曲で小分けにされた「練習曲集」とは異なり、一曲のなかに様々な演奏技巧を織り込んだ、これまた特殊なタイプの二曲です。
《流れる練習曲》作品765と《不屈の人―敏捷さの練習曲》作品779。いずれも1846年にパリで出版されています。2作とも、特定のテクニックに焦点が当てられ、和声付けもされています。その点、これまでに見てきたタイプ②や③に近いのですが、②に分類するには長く、技巧にも多様性が認められ転調も度々起こります。とはいえ、③に分類するほど性格の表現は重視されていません。また無窮動のように、休みなく走句が続くのも特徴です。
《流れる練習曲》作品765(イ短調)は、タイトルに偽りなく、休みなく流れるように8ページの間、「生き生きとしたアレグロ Allegro vivace」のテンポが保たれ、次々に様々な技巧が現れます。貴重となるのは16分音符による2オクターヴのアルペッジョです。
途中、音階も挿入されます。一時的にホ長調に転調したあとで、第32小節からは3小節間、右手に半音階と6度の重音を組み合わせたパッセージが組み込まれます
さらに、第42小節からは5小節間、右手のオクターヴと左手のアルペッジョが連続します。
こうした特定の技巧を持続的に、休みなく練習する形式は、《不屈の人―敏捷さの練習曲》と題された姉妹編にも共通しますが、こちらは更に長く、13ページに及び、三部形式を取らず一連の技巧が次々に繰り出される奇想的なパッセージ練習として提示されます。冒頭3小節の前奏につづき、32分音符の音階に基づくパッセージが登場します。
この右手のパッセージはその後次々に連打、オクターヴなど様々な形に姿を変えて現れます。次の譜例5は、分散された右手のオクターヴから同音連打とオクターヴの組み合わせへと移行する箇所です。
このような練習曲には、タイトルが物語るように勤勉な練習者の忍耐力の限界を試すかのような挑発的な態度を見て取ることができます。しかし、こうした練習はある意味では実用的目的に適ったものであったとも言えます。というのも、1850年代以降、協奏曲やソナタはますます大規模かつ複雑なピアノ演奏技巧を用いて書かれるようになり、そうした作品の演奏に耐える精神力と技術を向上させようとする教育的意図が働くことはある意味では時代の要請だったとも言えるからです。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。