「チェルニー30番」再考

20.パリで出版されたチェルニー練習曲―3つのタイプ:タイプ② その1

2014/09/08
第二部「30番」再考
20.パリで出版されたチェルニー練習曲―3つのタイプ:タイプ②その1
タイプ②「練習曲」と「訓練課題」の中間的なタイプで、全体として様式よりはメカニックな訓練に重点を置くもの。

日本でもお馴染み「30番」をはじめ、1830年代以降、チェルニーが「練習曲études」という名前で出版した練習曲集の大部分がこのタイプに分類されます。タイプ①とは違い、基本的に二部形式から三部形式の体裁をとり、V度-I度を基調とした簡潔な和声的枠組みをもつ小曲として提示されます。チェルニーにおいてはこのタイプに属する曲集が一番多いので、何度かに分けて、その特徴を具体的に見ていきましょう。今回は《全長短調による48の練習曲-前奏曲とカデンツァの形式による》作品161に話題を絞ります。

このタイプに分類される最初期の練習曲は1830年に出版された次の独特のタイトルを持つものです。《全長短調による48の練習曲-前奏曲とカデンツァの形式による》作品161。メイン・タイトルには「練習曲」とあるのにサブ・タイトルには「前奏曲」・「カデンツァ」という別ジャンルの名前が用いられています。ではその心とは一体?

まず、メカニックな観点から見た場合、同じ音型の反復は練習曲の一般的特徴です。次の譜例は第1番 ハ長調です。左手が2度、3度を織り交ぜた急速(Allegro vivace)な64分音符、右手が16分音符のスタッカートの分散和音で書かれています。いずれの音型も反復され、全体で12小節しか続きません。

では、それぞれのタイプの特徴を、実例とともに見て行きましょう。

それでも、タイプ①とは違って、曲の末尾には減七の借用和音による予期しない要素と、簡潔なカデンツが現れ、単純な形式であるにせよ、表現に起伏のある楽曲として成立しています。

この曲は、このように「前奏曲」としての簡潔性も備えています。前奏曲とは、古くからリュートやギターなどの弦楽器のチューニングの具合を確かめたり、同時に指慣らしをしたりするためのごく短い曲で、オルガンやチェンバロの為の曲を通して次第にひとつの作曲様式として定着していきました。ショパンの《前奏曲集》作品28は極めて丹念に書かれた作品ですが、曲の短さという点では前奏曲というジャンルの名残を留めています(例えば第7番イ長調は16小節しかありません)。

副題にある「カデンツ」という言葉は、声楽アリアや協奏曲などでドミナント和音のフェルマータ上で即興される華麗な装飾的楽句で、最後は華やかなトリルで締めくくられることがしばしばです。独立した楽曲として様式化されたジャンルではありませんが、前奏曲と同様、即興的なパッセージであることには変わりありません。

カデンツァ形式の例として第31番 変ホ長調を見てみましょう(譜例3)。3オクターヴ以上の音域を「プレスト」で一気に駆け上がる音階が、フェルマータを挟んで「レント」の和音と交代します。ご覧のとおり、この曲には表紙や小節線がなく協奏曲のカデンツァのワン・パッセージさながらの技巧的で即興的な体裁を取ります。

譜例3

同曲集、第31番 変ホ長調、冒頭

譜例1 C. チェルニー 《基礎的練習曲集》作品261 (1833), 第1, 2番

ここでのメカニスム上の狙いは異なる調の音階の反復的練習です。調性も音階が現れるごとに変ホ長調、変イ長調、ロ長調と次々に変化していきます。

練習曲に見られる反復的な音型の練習を、前奏曲やカデンツの短い世界にはめ込んだのがこの作品161と言えるでしょう。

さて、この機会に、この曲集から少し面白い例を紹介しましょう。第25番 ロ長調は両手が交互に隣あった鍵盤を急速に弾く練習です。譜例4の調号に注目してみてください。右手はハ長調なのに左手はロ長調。一見、20世紀に用いられる「複調」(異なる調性を同時に書く作曲技法)にも見えますが、実際には右手が白鍵、左手が主に黒鍵を弾くということを視覚的に示しただけで、2つの調性が重ねられているわけではありません。却って読譜がややこしくなりそうですが、この曲は読譜の練習の効果を狙ったものかもしれません。

譜例4

同曲集、第25番 ロ長調、冒頭

譜例1 C. チェルニー 《基礎的練習曲集》作品261 (1833), 第1, 2番

タイプ②はメカニックな側面に重点を置くため、曲集の大部分は速いテンポの曲が多いです。しかし、中には譜例5に示す第7番ように、ゆったりと歌うような表現の練習を目的とする曲もあります。

譜例5

同曲集、第7番 変ホ長調、冒頭

譜例1 C. チェルニー 《基礎的練習曲集》作品261 (1833), 第1, 2番

もちろん、メカニスムの観点から言えば右手で2つのパートを引き分けることが目的であり、表現上は同時に最上声部にレガートの独立した歌の抑揚を与えるのがこの曲の目的です。この曲では、メカニスムと様式が互いに歩み寄っています。が、こうした例はタイプ②では少数派です。ゆったりとしたテンポの「少数派」の中には第38番 変ホ短調 のように、和音と転調の練習も含まれます(譜例6)。

譜例6

同曲集、第38番 変ホ短調

譜例1 C. チェルニー 《基礎的練習曲集》作品261 (1833), 第1, 2番

これはプロテスタントの教会でうたわれる4声のコラールの様式に則して、転調を学ぶための曲と言えます。上にあげた第7番やこの第38番はタイプ②の枠に収まりきらない例外で、むしろタイプ③に傾斜した曲といえるでしょう。


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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