10.書いたはずのタイトルがない!― 不本意な出版に対するモシェレスの反応
―不本意な出版に対するモシェレスの反応
1838年、ボヘミアの作曲家イグナーツ・モシェレスは、前年の末にパリで出版された自作《性格的大練習曲集》作品95の楽譜を手にとって唖然としました。各曲の原稿に書き込んだはずのタイトルがすっかり抜け落ちていたのです。
この出版者の勝手な振る舞いに憤慨して、モシェレスは出版元の責任者モーリス・シュレジンガーに異議申し立ての手紙を書送り、手紙の本文をシュレジンガーが出版していた音楽雑誌『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカール』上に掲載させました 。
抗議文の中で、モシェレスはまず、作曲家の名誉は出版者が作曲者の提供した原稿に忠実であることによって保たれるのだ、ということを主張して次のように述べます。「各作曲家の名誉というものは、作品が厳密かつ完全なかたちで出版されるということにかっています。というのも、作曲者は批評や世論に対して責任があるからです。」これは現在にも通じる全く正当な主張です。影響力ある人物が何かを出版するときには、作者の立場が正確に伝わるように努力しなくてはなりません。それを怠れば、批評家は作者の主張を誤解し、誤った世論が喚起されるおそれがあります。
その上で、モシェレスは『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカール』上に紙面をもらい、自作品のタイトルのみならず、楽譜に掲げられたモットー、序文までもが省かれたことを人々にはっきり伝えて欲しい、と要求します。「・・・私の名を冠してM.シュレジンガー社から出版された新しい性格的練習曲が、私のまったく理解できない理由によって不完全なかたちで出版されたということを、音楽を享受する大衆に理解してもらう必要があると思うのです。出版された楽譜には説明的な序文とモットーばかりか、それぞれの練習曲の性格的なタイトルまでも抜け落ちています。これらはドイツ版とイギリス版、ならびにフランス版が依拠することになっていた自筆原稿に存在するものです。」
最後に、モシェレスはこれらの不備を訂正した新しいエディションを作るように要求しましたが、最終的には残念ながらシュレジンガーから新版は出版されなかったようです。
モシェレスの対応からわかるのは、1830年代の後半、練習曲にとっていかにタイトルが重要な意味を持つようになっていたか、ということです。「謝肉祭の情景」や「海辺に注ぐ月光」という詩的な表題(前回の記事参照)は、音楽と視覚的なイメージを結びつけます。ここに、単なる指の練習ではなく、想像力の広がりを刺激するジャンルとしての練習曲の新しい位置づけを見ることができるでしょう。
では、次回は、モシェレスが遅れて音楽雑誌上で発表したこの《性格的大練習曲》作品95のモットーと序文の内容を見てみましょう。
- Ignaz MOSCHELES, Revue et Gazette musicale, 5e année, n° 3, 21 janvier, 1838, p. 28.
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。