9.作曲者からみた練習曲とタイトル~モシェレスの場合
演奏技巧と特徴的な雰囲気・性格を兼ね備えた練習曲の様相は、実に多様です。30年代の後半になると、ピアニスト兼作曲家たちは、どうすれば高度なテクニックと独自の音楽的発想を練習曲に反映できるかを模索します。ある作曲家は練習曲に具体的なタイトルをつけることによって、着想の源泉を弾き手や聴き手に伝えようとしました。
ピアニスト兼作曲家たちは、なぜ練習曲にタイトルを付けることを望んだのでしょうか。その理由を図らずも説明することになった音楽家がいます。彼の名はイグナーツ・モシェレス(1794-1870)。プラハ出身のモシェレスは1820年にパリで演奏し、一躍脚光を浴びました。彼の練習曲への重要な貢献は、1827年と28年に出版された2巻の《ピアノのための練習曲、あるいは様々な調性による一連の24曲を含む向上のレッスン》作品70で、モシェレスを尊敬していたショパンにも書法上の影響を与えています。彼が1837年に出版した2作目の練習曲集は、《様式と華麗さを発展させるための新しい性格的大練習曲》作品95と題されています。24曲からなるこの練習曲集がドイツで出版されたとき、各曲には作曲者の計らいで次のようなタイトルがついていました。
1 | 怒り | Allegro non troppo | イ短調 |
2 | 和解 | Andante placid | ヘ長調 |
3 | 矛盾 | Vivace | 変ニ長調 |
4 | ユノ1 | Allegro maestoso | イ長調 |
5 | お伽話 | Allegretto grazioso | 変ホ長調 |
6 | バッカナール | Allegro con spirit | イ短調 |
7 | 優しさ | Andante molto espressivo | ト長調 |
8 | 謝肉祭の情景 | Presto | ホ短調 |
9 | 海辺に注ぐ月光 | Andante placid | 変イ長調 |
10 | テルプシコラ2 | Allegro giocoso | ロ短調 |
11 | 夢 | Andantino grazioso | 変ロ長調 |
12 | 不安 | Presto agitato | イ長調 |
この作品がパリで出版されたとき、モシェレスは自身の新作を手にとって驚きました。パリの出版者シュレジンガーは、どうした理由らか、このタイトルをすっかり省いてしまっていたのです。出版者の手落ちはそれだけではありません。彼がこの曲集に寄せたはずの序文までもが抜け落ちていたのです。
この出版者の勝手な振る舞いに、モシェレスは異議申し立ての手紙を書く事になります。次回は、その内容を見てみましょう。
I. モシェレス『様式と華麗さを発展させるための新しい性格的大練習曲
作品95』より 第7番「優しさ」
- ローマ神話における主神ユピテルの妻。結婚を司る最高位の女神。
- ギリシア神話に登場する学芸を司る9柱の女神ムーサの一人で舞踊の守護神とされる。.
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。