驚異の小曲集 エスキス

第34回「私は衆愚を嫌い、彼らを遠ざける/静粛に!」

2009/11/11

アルカンが人々に忘れられてしまったいちばんの理由は、彼の引きこもり生活にあったと考えられます。後半生、ほとんど人前に出ずに暮らすようになってしまったのは、直接的にはパリ音楽院の教授の座を射止められなかったことなどに端を発するものと言われていますが、アルカン自身の性質の問題がその根底にあったことも間違いないことでしょう。

つまり、もともと内向的な性格であったらしいことに加え、ユダヤ教の習慣を守り、周囲から浮いた存在として暮らしていたことや、知的興味の対象も一般とは大きく異なっていたことなどなど。

たいそうな読書家であったらしいアルカンは、たとえばユダヤの法典について非常に豊富な知識を持っていた。一説によると、ラビ(律法学者)と同等のレベルだったそうです。しかしまあ、このことは熱心なユダヤ教徒であったことを考え合わせれば、それほど不思議なことではないかもしれない。不思議なのは、なにやらユダヤ教以外の宗教や哲学についても博学を誇っていたところです。

たとえばアルカンがロッシーニについて「反キリスト」と評した言葉が残っています。キリストはユダヤ人にしてみれば偽の救世主であり、キリスト教はユダヤ教にとっていわば敵です。しかし、ユダヤ教徒だったはずのアルカンが「反キリスト」という、明らかにキリスト教的な立場からの発言をしている。これは珍しいことでしょう。ほかにも、晩年にはヘンデルの『メサイア』からの引用による大曲を残していて、そこからもキリスト教への共感が見て取れます。

何より驚くべきことに、彼はヘブライ語の「新約聖書」を独自にフランス語訳している。新約聖書はキリスト教の聖典なのですから、これは敬虔なユダヤ教徒として普通には考えられない行為だと言えます。

実のところ、アルカンはキリスト教云々というレベルではなしに、「宗教」という概念自体に関心を抱いていたらしい。そして、哲学にも。アルカンが古代への執着を持っていたこと、音楽にしても古い様式へのこだわりがあったことなどはこれまでも繰り返し述べてきましたが、それは趣味という範疇を超えて、彼の人格の重要な一要素であったのです。

ローマ時代に関する文献、ギリシャ時代に関する文献、すべてがアルカンの興味の対象だった。人が何を信じて生き、どんなことを思索し、世界をどんなふうに見ていたのか。文献から読み解いたそれらひとつひとつが、彼にとってはとても大切な糧となっていた。

複数存在する宗教というものをどう受け取るべきなのか、どうすれば世界というものをきちんと解釈できるのか、そんな根源的な――哲学的な――悩みに、彼自身ずっとつきまとわれていたのでしょう。

そんなふうに知的探求を続けていたアルカンには、一般人を見下しているようなところもあったのではないか。いや、その言い方は悪すぎるかもしれない。少なくとも、人よりよくものが見えているという自負はあったのではないか。

今回の曲タイトルは非常に変わっています。「私は衆愚を嫌い、彼らを遠ざける/静粛に!」......これはフランス語ではなくラテン語であり、古い警句から引用された言葉。「衆愚を~」の行を引いたのは、何かアルカン自身の胸に響くところがあってのことではないかと想像してしまいます。「静粛に!」の方は、もともと儀式の際に用いられる掛け声だったらしい。隠遁する自らの孤高の精神性を少し斜に構えて表現した音楽......そう解釈してしまいたくなるのは人情というものでしょう。

シンプルな曲なので、単旋律を弾く際の呼吸、和音を弾く際の音のバランスといった基本的なことに細心の注意をはらいましょう。和音の部分は基本6声部からなる合唱であるということを忘れてはいけませんよ。

ではではまた次回、「軍楽」にて。

第34回「私は衆愚を嫌い、彼らを遠ざける/静粛に!」
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森下 唯(もりしたゆい)

ピアノを竹尾聆子、辛島輝治、東誠三の各氏に、リート伴奏をコンラート・リヒター氏に師事。

ホームページ:http://www.morishitayui.jp/

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