第19回「恩寵」
根本的な世界観や思想を異にする人と分かり合うというのは、いつだって難しい。話し合いでなんとかなるレベルなら良いのだけど、相手が大事だと思っている事柄が自分にとってどうでも良いことだったり、さらには相手もこちらに同様の思いを抱いていたりすると、もうどうしようもない。お互いの言っていることがまるで理解できない。双方、相手はただの馬鹿だと思っている。そんな状態になってしまうでしょう。
しかし。そんな相手とでも、思想以外の部分で共通点が見つかることは大いにありうる。イデオロギーの対立で、互いに消してやりたい思っているような政治的指導者ふたりが、無類のカレーライス好きという一点において仲間であるかもしれない。彼らは政治的思考力に関しては相手をただの馬鹿だと見なしている。それでも、香辛料の至高の調合について論じるときには、その見識を認め合うよきライバルとなるのでした。
そんな風に、いくら相手と考え方が合わないとしても、同じホモ・サピエンスという生物種ですから、相違なんてたかが知れている。どこかしら共通点を見出せるものです。たいていの人は怪我をすれば痛くて泣きたいし、ぽかぽかの春の日差しを浴びれば気持ち良いなと伸びをしたくなる。......もちろん無痛症や色素性乾皮症で悩む人はこの限りではない。ですが、そういった特定の部分で差異があったとしたって、分かり合える部分はどこかにあるはずです。
さて、音楽は国境を越えるとよく言われます。言葉が通じない相手とだって、音楽で分かり合えるよ、と。確かに、音楽は見事に言葉や人種の壁を越えて感動をふりまいているように見えます。聴覚障害がないことは前提になってしまうけれど、音楽というのは多くの人が共有し、理解できるものなのかもしれない!
......しかし、単純にそう思ってしまって良いのでしょうか。作曲家たちはそれぞれ、いろいろな背景を持つ人間です。当然その作品は、作曲家の世界観を取り込むことになる。その世界観を共有しない人間が、正しく鑑賞し、あるいは正しく演奏することって果たしてできるのか。
特にクラシックには、多くの作曲家に共通する大事な世界観がある。キリスト教です。ミサ曲のようにそのまま宗教的な目的で書かれたものだって数多い。そうでなくとも、曲の構成にこめられた思想や、音の配列にこめられた感情などが信仰心に基づくものであることはままある。それに対して、現在の日本でピアノを弾いている人間のいかほどがキリスト者か、と言ったら、それはもう微々たるものでしょう。そんな我々は、作曲家たちと世界観を共有することなんてできないのでは?
アルカンひとりを例にとれば、これはもっと大変なのです。彼はユダヤ教徒でした。しかもただのユダヤ教徒じゃなくて、彼の頭の中ではどうやらユダヤ教を中心にして、キリスト教ギリシャ哲学その他もろもろを取り込んだ独自の世界観・思想ができあがっていたようなのです。彼の音楽は明らかにそうした独自の思想の影響下にある。そんなアルカンの曲のイメージを完璧に共有し、理解した上で鑑賞したり演奏したりできる人間なんているのか? いないでしょうね。
しかしですね、そんなことを言ってたら、行き着く先は見えてます。
――人間はみな孤独! 誰も他人のことなど真には理解できないのだ!
そんな結論。そうなると音楽なんてどう扱えばいいのやら。音楽で我々は何も共有できない。要するに音楽など幻想みたいなものだ。というか世界自体が幻想なんじゃ......? みたいな感じで、どこまでも考えは下降スパイラルです。
というわけでまあ、音楽で本当に分かり合ってるの? みたいなことって、あんまり気にしても仕方ないと思うんです。
先ほどの政治的指導者ふたりの話に戻ろう。彼らの一方はカレーを作るときのココナッツミルクの使い方にひどくこだわっているのだけど、それは彼の精神の奥深くでは財政出動のあり方に対するこだわりと根っこがつながっていた。そんなこと他人にはわかるわけないのですが。で、こだわりのココナッツミルクをちょいと多めに使ったカレーを食べて、政敵である相手方はおいしいと評したのでした。その味つけの奥底に隠れた財政に関する思想などとは無関係に。両者の経済学へのアプローチはまったく食い違っていて、理解しあう道は絶望的に険しい。でも、カレーそのものの出来栄えの前にはそんなこと関係なかった。ちなみに相手方はそのココナッツミルクの香りに、初孫を抱いたときの感情を思い出したのだそうな。......あ、これぜんぶフィクションですよ(断るまでもない)。
まあ、音楽の場合はもうちょっと、思想とのつながりは大切だと思う。けれども、思想は異なれど、感情の深みにおいては、思想心情と無関係に共有できるものが何か必ずあるはずです。たとえば「恩寵」と聞いたときに、ユダヤ教の神について考えるか、自然に宿る精霊たちについて考えるか、あるいは衝突を繰り返す膜宇宙について考えるかの違いはあれども、なにやら世界の恵みに感謝したくなる瞬間なんて、誰にだってあるはずでしょう?
というわけで今回は「恩寵」という曲です。嬰ハ音の連続はうるさくならず、粒をそろえて。右手の腕の重みは常に旋律の側にかかるようにすべきで、それに対して嬰ハ音を弾く親指はやわらかく、コントロール可能な状態で保たねばなりません。中間部の長調は聴かせどころなので、よく歌いましょう。
ではではまた次回。「村の小さな行進曲」をお楽しみに。