第07曲「戦慄」
この記事を書いている今は7月下旬、夏真っ盛り。夏といえば納涼ホラー大会なんてのが定番でして、今回とりあげる「戦慄」という曲は実に時期的にピッタリだな、などと思うわけです。
さて、音楽で恐怖を表現するというのは案外、難しい。もちろん現代にあっては、ホラーな音色を演出するのも簡単です。ヒステリックな笑い声をサンプリングしてサラウンドで飛び回らせて、ノイズを乗っけてみる、というような直接的な気持ち悪さもありだし、風の音っぽい、廃墟じみたアンビエンスを作って、そこで寂しげに電子音を鳴らしてみる、みたいなのもけっこう怖い。あるいは昔の恐怖映画みたいに、純粋にテルミンをうねうね不安定に鳴らしているだけで割とおどろおどろしい雰囲気があったり。
でも、クラシカルな楽器だけで、となるとまた違います。ましてロマン派の時代では、モロにぐちゃぐちゃした不協和音なども、音楽とは見做されませんから気軽に使ったりできません。そんな中でアルカンはどうやって「戦慄」を表したのか。しかもピアノだけで。
ここでちょっと別の曲を例に取ってみましょう。ベルリオーズの『幻想交響曲』という大変に有名な曲がある。この最終楽章には「ワルプルギスの夜の夢」というタイトルがついていて、魔女集会の狂気の世界が表現されています。その不気味さを出すために、ベルリオーズは弦楽器に変なことをさせている。弓の背で弦を叩かせるのです。もちろん、弓の背で打つなんていう想定外の弾き方では楽器本来の音は出ないんで、聴きなれない音がします。それが普段と違う、不吉な感覚を呼び起こす。特殊奏法というものの威力です。
オーケー、じゃあアルカンもそんな特殊奏法を使えば良い――というわけにはいきません。ピアノには特殊奏法というものは基本的に存在しない。まあ、後にはピアノの弦に物を挿んだり弦を直接はじいてみたりと無茶なことをやる人も出てきますけれど、楽器に無理がいくのであんまりやらない方が良いとピアノ弾きの私は思う。ともかく、当時はそんなことは考えられない暴挙だったのだから、ここは特殊奏法はなしで頑張らねばなりません。
さて、特殊奏法による恐怖の演出の核になっているのは「違和感」です。奏法に限らず、何か普段どおりでないことをやってみれば良いんではないか。この「戦慄」の楽譜の後半を見ていただくと、直接的には、低音の裏打ち混じりの連打あたりが違和感のポイントになっていることがわかる。丁寧に楔形のスタッカートがつけられて、この奇妙なリズムを際立たせるよう指示されています。そして最後の senza ped. と指示された低音の素早いアルペッジョも、非常に特殊な効果を発揮する。アルカンの創意工夫がよくわかります。
しかし、実はこれだけでは充分とは言えない。この曲のいちばん面白いポイントは別のところにある。
さて、先ほどあげた『幻想交響曲』には、恋人の女性を表す主題的なメロディーが出てきます。これはとても優美な旋律なのだけど、これが、「ワルプルギスの夜の夢」の中では全部の音に半音違いの前打音がついた形になって現れます。そうすると、せっかくの恋人の主題が、もはや優美さのカケラもない、どこか滑稽にすら思える響きに変貌してしまうわけです。これはある意味、特殊奏法よりも効き目の強い不気味さの表現となっている。滑稽の中に、悲しみや禍々しさを表現したベルリオーズの見事なアイディアです。
最初は美しかったものが、そうではなくなってしまった。あるいは、美しさの後ろに違うものを隠していた。こういう裏切りというか、反転というか、そういった変貌こそ、本当の恐怖の核になるものなのではないか。アルカンは、そのアイディアを短い音楽の中で鮮やかに用いてみせました。効果的なアイディア、それを形にするときの切れ味の鋭さ、両者を持ち合わせたアルカンは、小品の作曲家として無二の存在だなあ、と改めて感じます。
演奏上の注意としては、とにかく出だしは美しく。32分の3連符は決してうるさくなってはいけません。後半の「戦慄」する箇所も、あくまで控え目に、 mezza voce を忘れずに。阿鼻叫喚ではなくて、静かに肌が粟立つ感覚です。最後のアルペッジョ部分は弾きやすい指遣いをきちんと決めて、素早く、かつ音の粒が立つように気をつけましょう。あと、このアルペッジョの音型、実は出だしの音型と同じだということも意識の片隅にとどめておきましょう。
では次回「偽りの無邪気さ」をお楽しみに。